謀将幸隆が梃子摺った天険の山

尼巌城

あまかざりじょう Amakazari-Jo

別名:雨飾城、東条城

長野県長野市松代町東条

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

東条氏

主要城主

東条氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、石積み

雲に隠れる尼巌城<<2004年11月20日>>

歴史

築城時期は不明だが、この地の土豪である東条氏によって築かれたとされる。長禄四(1460)年の『諏訪御符礼之古書』には、東条遠江守が英多庄中条を知行していたと見えるという。

天文二十二(1553)年八月、武田晴信は小県郡の塩田城を攻めるに際し、大日向氏を通じて東条氏を調略しようとしている。弘治二(1556)年八月には真田幸隆に書状を送り、尼巌城を早く攻め落とすよう命じている。その後東条氏は敗れて越後に逃亡し、八月二十五日には晴信は西条氏に対し、尼巌城を普請するよう命じている。弘治三(1557)年七月には長尾景虎が尼巌城を攻撃しようとしたが、失敗に終わったらしい。武田信玄は永禄元(1558)年四月には、越後軍が侵攻した場合、小山田昌幸、真田幸隆らに対し、東条城(尼巌城)在城衆とともにこの城に籠城するよう命じている。

天正十(1582)年八月、上杉景勝が川中島周辺を征圧すると、東条遠江守信広が城主に復帰するが、慶長三(1598)年上杉景勝の会津移封に同道し、廃城となった。

川中島をめぐる城砦群というと、善光寺の背後に位置する山城である旭山城葛山城などが有名ですが、千曲川右岸にも武田方の拠点城郭である海津城(松代城)を中心に、弧を描くように広がる城砦群が知られています。このうち、標高781m(比高450m)の高峻かつ険しい「尼巌山」に築かれているのがこの尼巌城です。もともとはこの地の土豪である東条氏の詰城的な山城で、屋代氏や清野氏などの周辺の勢力がどんどん武田の調略に応じていく中で、東条氏はこれに抵抗、謀将・真田幸隆もこれに手を焼いて、信玄に「はよう攻め落とさんか!」と発破をかけられています。尼巌城は高いだけでなく非常に険しい山なので、これを「攻め落とせ」と言われた真田幸隆だって、「そんなこと言ってもよぉ〜、無理だよコリャ・・・戸石城だけで勘弁してくれよ・・・」と思ったかも知れません。それでもきっちり仕事をこなしてしまうあたりがいかにも謀略の職人といった感じです。自分だったらこんな山、攻めるのも守るのも真っ平御免、という感じです。尼巌城と接する寺尾城の城主、寺尾氏は本来は東条氏の同族であったようですが、こちらは武田信玄の調略に応じ、かの「戸石崩れ」の直前に村上義清、高梨政頼の連合軍に攻められています。ここでも同族の中での分裂が見られたようですが、結局東条氏はこの地を追われて越後に逃れ、一時旧領を回復するも、結局は上杉氏の家臣団として吸収され、会津移封にまで同道しています。

真田幸隆が攻略した後は廃城かと思いきや、信玄は西条氏らに尼巌城の普請を命じており、以後暫く使われたらしいです。信玄はイメージ的にこういう古臭い山城などは好みではなさそうですが、この場所が「川中島」という特殊な地であり、戦略拠点である海津城の外郭の一環として、存続した方が良いと判断したのかもしれません。あるいは海津城の頁でも書いたように、海津城そのものが実は謙信をおびき出すためのエサであり、高坂弾正あたりに「もしあの男が本当に攻めてきたら、相手にせずにこの山で暫く援軍を待ってろ」というような指示のひとつもあったかも・・・・妄想ですが・・・・。後に武田氏滅亡後は上杉景勝に属した東条氏が城主の座に返り咲いていますので、意外なほど長い期間存続していたようです。

尼巌城平面図(左)、鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

この尼巌城海津城あたりから見渡すと実によく目立ちます。背後に奇妙山という山(ここにも烽火台があった)がありますが、この尼巌城の山の方がよっぽど奇妙です。その姿は、まるで海坊主がぬぬぬぬっと頭をもたげたような形で、しかもその周囲は断崖絶壁の岩山、こんなの攻めたり守ったりする以前に、どうやって登るんだよ、とさえ思います。実際攻め口は山の先端附近からの急斜面か、奇妙山からの尾根続き以外には考えられない地形で、まさに難攻不落、天然の要害といえます。えてしてこういう天険の山のお城というのは遺構は少ないものなのですが、それでもここには規模は小さいながらも遺構もしっかり残っています。山頂付近には堀切、竪堀などが見られるほか、一部に石積みもあります。ただ岩山であるためか、堀切はどれも浅く、規模そのものは大きくはありません。そんな中でも堀3の竪堀などは主尾根の堀切と、小さな支尾根の竪堀が合流していて、面白い部分です。いずれにせよ、地形が地形だけに、堀切や竪堀などはあっても無くても、さほど変わらないんじゃないか、とも思えます。

この尼巌城(尼巌山)への登山ルートは複数あるようですが、今回は「信州山歩き地図」を参考に、西側の山の先端附近から尾根筋をほぼ直登しました。しかし途中に通がはっきりしないガレ場も多く、よほど慎重にルートを見極めないと、垂直な岩壁(ロッククライミングの練習場として有名らしい)にぶつかってアウト、になります。地元の人に聞くか、事前に長野市や長野県警に問い合わせて、しっかりルート確認することをオススメします。「信州山歩き地図」というサイトにわかりやすいイラスト地図があり、大変助かりました。こちらを参考にすると良いでしょう。

[2005.06.18]

比高差450mにもおよぶ尼巌山、しかもところどころに断崖絶壁の岩場が。こりゃ大変そうな山だ・・・。 麓の善徳寺から進軍開始。しかし真下から見上げると、覆いかぶさって来るような迫力が。覚悟を決めて、いざ。
山腹のところどころには古墳があります。この地方ではこうした高い場所に古墳を設ける例が多いようです。 いよいよ登りは厳しい岩場に。踏み跡がはっきりしない場所もあるので、ルートの見極めは慎重に。
見晴らしの良い岩場で一服。目の前には海津城、鞍骨城や城下町・松代の街並みなど、歴史ロマンのパノラマが広がります。 こちらは海津城を望遠。平城の海津城、いざとなったらこの山に逃げてくるつもりだったのかもしれません。
中腹の平場にあった立派な石積み。木戸でも設けられていたのでしょうか。険しい道はまだまだ続く・・・。 やっと城域らしい場所へ。ここは先端にあたるW曲輪。
W曲輪から見上げる山頂付近の切岸。どんな山でも不思議と切岸というのはハッキリわかるものです。 いよいよ本格的な遺構が見え始めます。これは尾根を断ち切る堀2、深さは最大5mほど。しかしこの山に堀切が必要なのか・・・?
北側の支尾根に設けられた堀3。V字型の竪堀で、堀1、堀2と接合します。ある意味、遺構面では最も面白い場所ではあります。 一応曲輪U、Vなどとしましたが、山の上はあまり満足に削平もされておらず、自然地形に限りなく近い状態です。
堀4は岩盤を断ち切った豪快なもの。深さは3m程度ですが、この岩盤をゴリゴリ掘るのは大変だったでしょう。 主郭手前の堀5、6の二重堀切を見る。こちらは堀切といっても尾根を完全には分断しておらず、櫓か木戸を設けるためのものとも思われます。
主郭手前の二重堀切に挟まれた櫓台風の高まり。南側を通路が通っているため、本来はここに木戸が設けられていたものと思います。 いよいよ主郭。ここはきちんと削平されています。潅木が多く、眺望はイマイチ。

標高780.9mの三角点。約一時間半、とうとう来たぞ〜!周囲には狼煙にでも使われたものか、石で囲まれた枠状の遺構などもあります。

主郭南側の腰曲輪にわずかに残る石積み。周囲には崩れた石塁らしいものも転がっており、本来はもっと石積みが多かったかもしれません。

主郭南側の腰曲輪。この方面に搦手があったらしいですが、この先は断崖絶壁でルートがよくわかりません。

断崖絶壁の先端から足許を覗いてみる。ヒュ〜、これはキてる・・・。こんな山で攻防戦を繰り広げた人々の苦労を思わずにはいられない。

奇妙山との尾根を断ち切る堀7。堀と言っても尾根続き側はほとんど掘られておらず、「切岸の壁」という方が適切な表現かもしれません。

奇妙山へと続く尾根筋は巨岩がゴロゴロ。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「長野」IC車20分、長野電鉄屋代線「松代」駅より徒歩15分で登り口。そこから徒歩1.5時間。  

周辺地情報

まずは海津城へ。金井山城、寺尾城が峰続き、南側に向かい合う山塊には鞍骨城、竹山城などがあります。

関連サイト

 

 
参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦国武田の城」(中田正光/有峰書店新社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の山城」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

参考サイト

信州山歩き地図 

 

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