第二回川中島の舞台となった
旭山城
あさひやまじょう Asahiyama-Kojo
別名:朝日山城
長野県長野市平芝〜安茂里
(旭山観音堂付近)
山城
築城時期
天文二十四(1555)年
築城者
武田晴信
主要城主
栗田氏
遺構
曲輪、石積み、堀切、竪堀、土塁
善光寺から見る夕照の旭山城<<2002年11月07日>>
歴史
天文二十二(1553)年四月、武田晴信(信玄)は葛尾城の村上義清を追い、義清は越後春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼った。義清は越軍の援軍を得て一時は葛尾城を奪取、塩田城に籠って抗戦したが武田軍の来襲に自落、越軍は坂木南条まで進軍したものの決定的な戦闘を交えることなく撤退し、武田氏は北信濃・川中島方面への侵攻の手がかりを掴んだ(第一回川中島合戦・布施の合戦)。
天文二十四(1555)年、武田晴信は信濃善光寺別当職、栗田氏の内部分裂を利用し、小御堂別当職の栗田鶴寿を長尾側から寝返らせることに成功し、武田氏の影響力が犀川以北に及ぶようになった。これを受けて長尾景虎は四月に春日山城を進発し善光寺平に駐屯、横山城(城山)を本陣とした。武田晴信は木曽に出陣中であったが、帰順した栗田鶴寿に武田軍三千と鉄砲隊三百を付け、旭山城に籠城させた。晴信は木曽の攻撃を切り上げて犀川対岸の大塚(大堀館)に本陣を置いて長尾勢と対峙した。長尾景虎は旭山城の機能を減殺するために、裾花川の対岸に葛山城を築いて落合備中守一族や小田切駿河守らを籠らせて旭山城を牽制した。この葛山城築城により両軍の形勢が五分となり、双方決め手が無いまま対陣を続けた。三ヵ月後の七月十九日に両軍の間で戦闘が行われたが、場所や規模は不明。その後も対陣が続き、武田軍は兵糧の調達に苦心し、また晴信は士気の低下を防ぐため、麾下の将に未だ確保していない高井郡高梨の地を与える約束手形を出している、長尾軍も勝手に陣を引き払う将や喧嘩などが頻発したため、麾下の将に五箇条の誓詞を提出させるなど軍紀の引き締めに苦心している。結局、今川義元が仲介となり、閏十月十五日に景虎と晴信は神文誓詞を交わして和睦が成立した。この際に、越軍からの条件提示で旭山城は破却された(第二回川中島合戦・大塚の対陣)。
しかし晴信はまもなく北信濃への調略を開始、葛山城に籠る落合一族の切り崩しに着手した。弘治二(1556)年三月、真田幸隆が葛山城中腹の静松寺を通じて落合一族と接触し、落合氏庶流の落合遠江守、落合三郎左衛門尉らの内応を得た。弘治三(1557)年二月十五日、雪で越軍の身動きが取れないことを見越した武田軍は葛山城を攻撃しこれを陥落させ、落合備中守、小田切駿河守は討ち死にした。これに対し長尾景虎は四月十八日に信越国境を越え、四月二十一日に善光寺に着陣、二十五日に武田軍によって破却された旭山城を再興して陣所を設け、葛山城の城下に放火するなどの行動を起こした。この後、八月二十九日に上野原(長野市上野カ)付近で戦闘が行われたが、これも決定的な戦闘は行われず、晴信自身も後方の深志城で指揮を執るに留まり、越軍は九月五日に撤退、武田軍も十月十六日に甲府に撤退した(第三回川中島合戦・上野原の戦い)。
永禄四(1561)年の第四回川中島合戦以後は旭山城は武田軍の支配下に置かれ、越軍は旭山城付近を偵察している。その後は記録に見えなくなるが、海津城が川中島支配の拠点となり、次第に廃城となったと推定される。
実は今回の長野の旅で、最も楽しみにしていたのが、長野市に面する高峰上の旭山城と葛山城でした。旭山城は武田氏が川中島、善光寺平を制圧し、越軍の南進を阻止するために築かれた山城です。信玄はここに善光寺別当職の栗田鶴寿らとともに鉄砲隊300を入れており、この時期に武田軍が鉄砲という新兵器を組織的に軍団に組み込んでいた事実をあらわしている事例としても有名です。
この旭山城が最も注目を浴びる時期は「第二回川中島合戦」から「第三回川中島合戦」にかけての時期です。「第一回」で埴科・更科郡以南をほぼ制圧した武田勢がいよいよ本気で川中島の領有に向けて動き出した時期でもあるのですが、前述の通り、こうした情勢を踏まえて北信濃に影響力のある善光寺別当職の内部対立(山栗田と里栗田の両別当職の対立)に付け込んで山栗田氏を味方に引き込んだうえで、越軍の侵攻を食い止めようという意図が見て取れます。これによって犀川の渡河ルートの横腹を脅やかされた越軍は、目と花の先に葛山城を築き、旭山城の機能を減殺します。この結果、「第二回川中島合戦」、通称「大塚の対陣」は200日にもおよぶ睨み合いとなり、双方決定的な一戦を交えることなく、今川義元の仲裁で兵を退きます。この際、和睦条件として越軍が主張したのが旭山城の破却です。ちなみに「第三回」は和議に反して武田軍が越軍方の落合備中守の葛山城を攻め取った事から戦端が開かれ、越軍は武田軍が破却した旭山城を再興し、本陣として利用しています。
このような経緯から、旭山城には武田氏、上杉氏両方の手が入っていると考えられますが、現状を見る限り、「武田流」とか「上杉流」の築城法を明確に見分ける事は出来ませんでした。ただ同時期に指呼の間に存在した葛山城には石積みが一切使われていないのに対して、旭山城の方はかなり大規模な石積み技法が見られることが特徴です。この石積み遺構は上杉氏系の城郭には見られない特徴であることから、そういう意味では、武田氏、あるいは信濃の有力者であった善光寺別当・栗田氏の色合いが濃い城郭と言えるかもしれません。
遺構は前述の通り、石積みが随所に見られるのが特徴です。ただ、大半は崩落しているため、明瞭に残っている範囲はわずかです。山頂の主郭は方形に近い平場で、周囲には堀切や多くの削平地が見られ、行く前は「一時的な陣城」みたいなのをイメージしていたのですが、かなり本格的な山城の構えでした。
行き方はちょっと難しく、ソレガシも迷った挙句、長野市観光課に電話して教えてもらいようやく辿り着きました。「杏花台団地」「平芝」集落方面から「旭山観音堂」に向けて車で登り、観音堂を過ぎて100mほどで右手(北側)の「旭山自然探察林道」を100mほど進むと遊歩道の入り口に達します。もともと安茂里集落方面から登山道があったとの事ですが、こちらは崩落のため通行できないそうです。これから見学に行かれる際はご注意ください。
[2003.01.16]
2004年6月21日、ちょっと季節外れですが再訪しました。図面等、掲載します。
[2004.08.29]
周辺図(サムネイル)
【旭山城の構造】
旭山城は犀川の支流、裾花川が山麓を流れる標高785mの峰の頂上に築かれている。善光寺との比高差はおよそ380mである。
旭山城平面図(左)、鳥瞰図(右)
※クリックすると拡大します。
主郭は山頂に位置する40m四方ほどの、変形方形のT曲輪である。この曲輪は周囲を低くて幅のある土塁がほぼ全周しているが、この土塁上や土塁直下には夥しい石片が散乱している。この土塁の周囲をよく見ると、所々に整然とした石積みが残っているのがわかる。また西側や北側の曲輪を中心に、かなりの箇所で石積み遺構を見ることができる。おそらく夥しい量の石片は石塁が崩落したものであり、往時は主郭を中心とする主要な曲輪のかなりの部分に石積みが施されていたものと考えられ、この旭山城の大きな特徴である。曲輪はTのほかに東側のUや、 南北の腰曲輪(W、X)などもあるが、主要な曲輪はこのT曲輪のみであるといってよい。規模の大きな山城ではあるが、大軍の籠城を想定したものというよりも、少数の兵力で確実に守備できることを重視しているようだ。また、山の先端部に当たるWはほとんど自然地形のままではあるが、川中島、善光寺附近を直接俯瞰できる位置にあり、物見や狼煙の場として用いられていただろう。
主郭の前後は大堀切1、2で断ち切られている。この堀切は山腹をかなり下まで伸びていて、主郭を中心とした中核部を完全に尾根から切り離している。この二本の堀切に挟まれた中核部の北側は腰曲輪状のW曲輪を設けており、一部には石積みも見られる。その下は急斜面である。南側は傾斜はやや緩く、その分数段の腰曲輪状の削平地(W)を設け、その最下段には横堀4を配している。
大堀切3の西側には南に向けて数段の曲輪が見られるほか、一部に竪堀(堀6)なども見られるが、地山はほとんど削平されておらず、ほぼ自然地形のままである。主郭の東側では、大堀切1の南側は緩い勾配を持つ尾根が続き、尾根上には直径6mもある巨岩が転がっている。この尾根には比較的大きな削平地(U曲輪)があり、尾根筋は堀 10〜12などの堀切・竪堀で連続的に分断されている。最東端のY曲輪からは、善光寺から川中島に至る広い範囲が見渡せ、物見として絶好の位置にある。
旭山城は川中島進出を狙う武田氏が善光寺別当の地位にあった栗田氏を味方に引き込んで築城されたものであるが、おそらく単郭の狼煙台、物見台程度の砦はもともとあったのだろう。川中島をめぐる鍔迫り合いの中で、武田氏が徐々に拡張・改修したものと思う。石積み遺構や横堀の存在などにそれを感じさせる。一方、東尾根の連続する堀切や一部に見られる連続竪堀などは上杉氏流の技法に近い(もちろん武田にも類例はあるが)。「第二次」から「第三次」にかけて、甲軍は越軍の葛山城を落とし、越軍は甲軍の旭山城を再興して対抗している。つまり裾花川を挟んで両陣営が付け城を交換したような次第となったのであるが、その関係で旭山城にはお互いの築城様式が入り混じっているようである。
旭山城と葛山城を巡っては、天文末期から弘治年間にかけて、「第二次」「第三次」の川中島合戦の係争地として歴史に登場する。また、有名な「第四次」の際には、旭山城は越後軍の退却路確保にひと役買っているようである。だが、両方とも麓との比高差が400m前後の高峰で、討って出るにも退くにも小一時間はかかるという山である。こういう比高差の大きい山城が戦局に与えうる影響というのはどれくらいなものであろうか。当時の戦いのスタイルともあわせて、考えてみる余地がありそうだ。
竪堀となって急角度で落ちてゆく堀2。ちょっと足許がアブナイので気をつけて歩きましょう。
崩落した石塁で埋め尽くされた北側の竪堀(堀2)。幅、深さ、長さとも非常に立派なものです。この時点で「陣城」という考えは捨てざるを得ませんでした。
W曲輪では堀2に面して、至るところで石積みが見られます、
W曲輪に散らばる夥しい石塁、よく見ると井戸があったようにも見えるのですが・・・。
西尾根の南側斜面のかなり下段にある横堀4。このお城で横堀が使われているのは多分ここだけでしょう。
展望台のある東側の尾根を歩く。途中数箇所の堀切があります。写真は堀切10。
「謙信の物見岩」とも呼ばれる尾根上の巨石。なんでもこのあたりは10万年前は海底だったそうです。海の底が今では800mの山に。。。自然の力ってスゴイ。不思議。
先端のYから、まだ朝霧の残る川中島を望む。「決戦」の日はもっと霧が濃かったんでしょうねえ。
交通アクセス
上信越自動車道「長野」IC、「須坂長野東」ICより車20分。
長野新幹線・しなの鉄道・篠ノ井線・信越本線「長野」駅から徒歩60分。
周辺地情報
関連サイト
参考文献
「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)
「風林火山・信玄の戦いと武田二十四将」(学研「戦国群像シリーズ」)
「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)
「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)
「歴史読本 1987年5月号」(新人物往来社)
別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)
「日本城郭大系」(新人物往来社)
「戦国武田の城」(中田正光/有峰書店新社)
参考サイト