虎視眈々、小田原一城から相模一国へ

岡崎城

おかざきじょう Okazaki-Jo

別名:

神奈川県平塚市岡崎〜

伊勢原市岡崎

城の種別

平山城(丘城)

築城時期

鎌倉初期? 

築城者

岡崎義実?

主要城主

岡崎氏、三浦氏、北条氏

遺構

曲輪、堀切、空堀、虎口、土塁の一部

居館跡と伝えられる無量寺<<2002年04月29日>>

歴史

鎌倉幕府創生に多大な軍功のあった三浦義明の弟、四郎義実が岡崎に居を構え、岡崎姓を称したのがはじまりとされる。

永享三(1454)年、関東公方の足利成氏と関東管領・上杉氏が対立する「享徳の大乱」が勃発、康正元(1455)年、武蔵分倍河原で上杉方の長尾景仲と足利成氏が闘い、長尾景仲は常陸小栗城に敗走したが(分倍河原合戦)、その際に上杉方の三浦介時高が岡崎の城を乗っ取り居城とした。三浦時高は実子に恵まれず、扇谷上杉定正の兄・高救の子を養子として迎え、この養子は義同と名乗った。しかし時高に晩年実子(高教)が生まれると時高と義同の関係が悪化、義同は一時、小田原城の大森氏を頼って相模国足柄総世寺に遁世し道寸と号した。しかし、義同の武勇を慕う三浦家の家臣団に擁立され、明応三(1494)年、義同は養父の時高を相模新井城に攻め滅ぼし、岡崎城を居城とした。

この頃、伊豆の韮山城に本拠を置く伊勢新九郎(北条早雲)は大森藤頼の小田原城を急襲しこれを奪取した。この頃の早雲は山内・扇谷両上杉家の対立に対して今川氏親の意向を受けて扇谷上杉家に味方し、今川氏の一将として関東一帯から甲斐・駿河・三河に出兵している。しかし上杉定正の死後、扇谷家は朝良が嗣ぐが振るわず、両上杉は永正二(1505)年に和睦し早雲と対立した。早雲は一旦は両上杉と和睦するが、永正九(1512)年八月、古河公方家・山内上杉家の内紛の乗じて和睦を破棄、扇谷上杉氏方で相模における最大勢力であった三浦義同の岡崎城を急襲しこれを奪取した。三浦義同・義意父子は岡崎城から逃れ住吉城に立て籠るがこれも陥とされ、義同らは新井城三崎城に立て籠った。早雲は力攻めでは陥とすことができないと考え、翌永正十(1513)年十月に三浦半島の付け根に玉縄城を築き糧道を断つ作戦に出た。結局永正十三(1516)年七月に、早雲は三浦父子を新井城に攻め滅ぼし、相模一国を手中にした。

北条氏傘下における岡崎城については記録がなくその後のことは不明だが、天正十八(1590)年の小田原の役で廃城になったと思われる。

早雲が小田原城一城を奪取した後、こんどは相模一国をターゲットに三浦氏攻略を開始したという、記念すべき地です。堀越公方の襲撃と韮山城入城、そして大森氏の小田原城の奪取までは少なからず今川氏の意向も反映されていて、実際に兵力を借りたりしているわけですが、この三浦氏の本拠であった岡崎城奪取あたりから早雲の「独自の野望」的なものが感じられます。実際に完全に独立した戦国大名への道を歩むのは早雲の子、氏綱の代からなのですが、すでにこの相模一国への野望は来るべき戦国大名の時代への幕開けを十分感じさせます。それまでの各地の対立・抗争の構造はどちらかといえば「家督相続を廻る国内での内紛」や「一部叛乱者に対する幕府軍・守護勢力の討伐(多くは「朝敵」として)」という構造だったのが、「独立した領土拡張を廻っての地域抗争」に移りつつあり、その意味でも群雄が割拠することになる「戦国大名の時代」のはじまりを告げる出来事だったとも言えるでしょう。そしてご存知の通り、北条氏は「相模一国」から「関八州」へ、五代百年に及ぶ関東最大の戦国大名へと羽ばたくことになるのです。

岡崎城は相模平野に突き出た小高い丘陵のほぼ先端部に位置し、地形だけ見るとさほど要害とはいえないですが、当時は周囲に「西海地土腐(さいかいちどぶ)」という大きな湿地帯があったそうで、それらの湿地を防衛線にしていたのでしょう。位置的に相模のほぼ中心に位置し、領国経営には適地だったかもしれません。要害性よりも領国の経営を重視した用地選定で、そういう意味では近世城郭に繋がる先進性があったといえるかも知れません。一応「無量寺」を中心としての城域が定義されているようですが、周辺の谷津を挟んだ対岸の丘陵上にもいかにも中世城郭的な地形があり(とくに岡崎四郎義実の墓周辺)、城域はさらに広大だった可能性もあります。周囲は宅地化と農地化が進んでいますが、事前に期待していなかった分、断片的ながらも多くの遺構を目にすることができて、いい意味で事前の予想を裏切られました。北条氏が奪取してからの岡崎城がどうなったのかはわかりませんが、小田原城の支城のひとつとして存続したのでしょう。ただいわゆる「北条系城郭」に見られるような大規模かつ技巧的な普請があったようには(少なくとも表面上は)見えません。小田原城玉縄城の「繋ぎの城」くらいの位置付けだったかもしれませんね。

西側から望む岡崎城の丘陵。比高20mちょっとの低い丘ですが、周囲は深い湿地に阻まれた要害でした。 「無量寺」境内に掲げられた解説板と石碑。無量寺曲輪は城主居館と伝えられています。わずかでもこうした解説板があることが、ここに岡崎城があったことを知らしめてくれています。
無量寺裏手の畑との間の道が、かつて無量寺曲輪と主郭を区切る堀であったと思われます。無量寺裏の稲荷社が建つ付近には土塁も残ります。 無量寺裏の畑が主郭と比定される仮称・北曲輪。ここから南端に向かって三段の曲輪がありますが、斜面の下は猛烈な藪で入ることができませんでした。
北曲輪の北方、北虎口付近から西にかけては、藪化しているものの空堀がよく残っています。 無量寺曲輪の南端付近にある、屈曲した切通しの階段が南虎口と思われます。

南虎口付近の畑には、幅10mほどの外堀跡が断片的ではありますが残っています。

無量寺付近から案内に従って岡崎四郎の墓に向かうと、その途中にもご覧のような立派な外堀跡が残っています。宅地や畑になってはいても、断片的ではあるものの意外と遺構がよく残っています。

鎌倉初期に活躍した、岡崎四郎義実の墓。「悪四郎」とも呼ばれた猛勇の坂東武者。 その岡崎四郎の墓周辺はいかにも中世城郭風な地形があちこちに見られます。戦国期の岡崎城が築城される前の原型となる館は、もしかしたらこの付近の丘陵上にあったのではないでしょうか。
城址としての整備はされていませんが、無量寺周辺を歩き回ってみるといろんな発見があると思います。はじめていく方はこの無量寺を目印にしましょう。

 

 

交通アクセス

東名高速道路「厚木」IC車15分、小田原厚木道路「平塚」IC車5分。

小田急小田原線「伊勢原」駅徒歩20分

周辺地情報

遺構らしいものは無いものの伝上杉氏館が近い。道灌の墓もあります。小田原方面であれば小田原城、平塚方面であれば大庭城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板

参考サイト

北条五代の部屋

埋もれた古城 表紙 上へ