鎌倉幕府創生に多大な軍功のあった三浦義明の弟、四郎義実が岡崎に居を構え、岡崎姓を称したのがはじまりとされる。
永享三(1454)年、関東公方の足利成氏と関東管領・上杉氏が対立する「享徳の大乱」が勃発、康正元(1455)年、武蔵分倍河原で上杉方の長尾景仲と足利成氏が闘い、長尾景仲は常陸小栗城に敗走したが(分倍河原合戦)、その際に上杉方の三浦介時高が岡崎の城を乗っ取り居城とした。三浦時高は実子に恵まれず、扇谷上杉定正の兄・高救の子を養子として迎え、この養子は義同と名乗った。しかし時高に晩年実子(高教)が生まれると時高と義同の関係が悪化、義同は一時、小田原城の大森氏を頼って相模国足柄総世寺に遁世し道寸と号した。しかし、義同の武勇を慕う三浦家の家臣団に擁立され、明応三(1494)年、義同は養父の時高を相模新井城に攻め滅ぼし、岡崎城を居城とした。
この頃、伊豆の韮山城に本拠を置く伊勢新九郎(北条早雲)は大森藤頼の小田原城を急襲しこれを奪取した。この頃の早雲は山内・扇谷両上杉家の対立に対して今川氏親の意向を受けて扇谷上杉家に味方し、今川氏の一将として関東一帯から甲斐・駿河・三河に出兵している。しかし上杉定正の死後、扇谷家は朝良が嗣ぐが振るわず、両上杉は永正二(1505)年に和睦し早雲と対立した。早雲は一旦は両上杉と和睦するが、永正九(1512)年八月、古河公方家・山内上杉家の内紛の乗じて和睦を破棄、扇谷上杉氏方で相模における最大勢力であった三浦義同の岡崎城を急襲しこれを奪取した。三浦義同・義意父子は岡崎城から逃れ住吉城に立て籠るがこれも陥とされ、義同らは新井城、三崎城に立て籠った。早雲は力攻めでは陥とすことができないと考え、翌永正十(1513)年十月に三浦半島の付け根に玉縄城を築き糧道を断つ作戦に出た。結局永正十三(1516)年七月に、早雲は三浦父子を新井城に攻め滅ぼし、相模一国を手中にした。
北条氏傘下における岡崎城については記録がなくその後のことは不明だが、天正十八(1590)年の小田原の役で廃城になったと思われる。