龍王丸と北川殿を庇護した 

丸子城

まりこじょう Mariko-Jo

別名:鞠子城、宇津谷城、三角城

静岡県静岡市丸子

城の種別

山城

築城時期

応永年間(1394〜1428)

築城者

斎藤安元

主要城主

斎藤氏、今川氏、山県氏

遺構

曲輪、土塁、空堀、三日月堀、堀切、竪堀、枡形、馬出し等

本丸西側斜面の西大空堀<<2002年04月06日>>

歴史

応永年間(1394〜1428)、駿河守護・今川氏の被官であった斎藤安元によって築城された。文明八(1476)年、今川義忠は応仁の乱に際し前年より京都に出陣し、帰国に際し遠江で勢力を張っていた横地氏、勝間田氏を討ち凱旋の途上、残党に襲われ流れ矢により落命した(塩買坂合戦)。この義忠の跡目相続をめぐり、嫡子であった龍王丸(当時六歳)派と、範忠の叔父にあたる小鹿新五郎範満を擁立する小鹿派に分裂して内紛状態となり、龍王丸生母の北川殿は、兄で当時今川氏に食客として仕えていた伊勢新九郎長氏(のちの北条早雲)の手引きで龍王丸とともに丸子の館に籠った。この今川氏内紛では堀越公方・足利政知や扇谷上杉氏の武力介入を狙ったが、伊勢新九郎は扇谷上杉軍を率いる太田道灌と会談し、和解案を示して外部の勢力の介入を防いだ。

新九郎の和解案で、龍王丸が成人までは小鹿範満が政務を代行し、龍王丸成人後に家督を相続させる約束であったが、龍王丸と北川殿は駿府館にはもどらず丸子館に投宿した。しかし龍王丸が成人後も家督を譲る気配がなく、長享元(1487)年十一月九日、新九郎は駿府館を急襲し範満を討ちとり、龍王丸は正式に家督を相続し氏親と名乗った。この功により新九郎は氏親より興国寺城を与えられた。氏親は、街道の集中する交通の要衝である丸子を重視し、、明応二(1493)年、斎藤氏に丸子の館を譲らせ、駿府館の支城として整備した。

永禄十一(1568)年十二月、武田信玄は天文二十三(1554)年以来続いた甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻し、駿府館の今川氏真を追い、氏真らは着の身着のまま遠州掛川へ退去し、信玄は駿河を併呑、丸子城へは山県三郎兵衛昌景を置いた。永禄十三(元亀元・1570)年には諸賀兵部大輔、関甚五兵衛らを、信玄死後の天正六(1578)年頃には屋代勝長が城将に任じられ、駿府防衛の拠点として大々的に整備拡張した。しかし天正九(1581)年、高天神城の攻防に際して、丸子城は無血開城し徳川氏の手に渡った。徳川氏は城代の松平備後守を置いて丸子城を支配したが、天正十八(1590)年の関東移封に伴い廃城となった。

室町期を代表する名門守護大名、今川氏の当主、今川義忠の急死により、今川家は緊張に包まれた。嫡子・龍王丸とその叔父・小鹿範満の相続争い。ここには今川氏の命運のみならず、傾きかけた室町幕府、伊豆堀越の堀越公方・足利政知や関東管領の両上杉家らの思惑が絡み、一触即発の緊張状態がもたらされました。そこで名をあげた人物が、当時今川家に寄食していた流れ者の風雲児・伊勢新九郎。そう、のちの北条早雲の登場です。のちに早雲が伊豆を斬り従え、小田原城を奪取し、戦国時代への火蓋を切った、その原点がこの今川氏の跡目相続問題でした。扇谷上杉氏が派遣した太田道灌とも面談し、外部勢力の干渉を巧みにかわし、内訌を仲裁してこの危機を救いました。早雲と道灌、この名将ふたりが何かのめぐり合わせでこのように面と向かって会談する、その場を想像すると鳥肌の立つような光景です。生母の北川殿は新九郎の妹とも、義理の妹とも言われ、その血縁から新九郎は駿河に下向して今川氏の食客になったと言われます。ですから、龍王丸は新九郎にとって、甥っ子にあたるわけです。ともあれ、当面の国主の座を範満に任せ、龍王丸は成人するまで、その母・北川殿とともに早雲のもとに庇護されます。この、早雲が彼らを庇護した場所がこの丸子で、丸子城はその詰城にあたります。やがて成長し元服して「氏親」を名乗った龍王丸。しかし、範満は一向に国主の座を譲る気配もなく、駿府館で勢力を蓄えます。これに危惧した龍王丸派を取りまとめ、新九郎は駿府館を急襲し、めでたく氏親に家督を相続させることに成功します。一連の働きの恩賞として、新九郎は駿河興国寺城を与えられます。その後の活躍はご存知のとおりです。氏親も、領民を庇護し今川家を旧来の守護大名から新時代の戦国大名へと発展させました。

その、龍王丸と北川殿を偲びたくてやってきました。実は後輩の上田君とその彼女を誘って、「箱根の坂・中巻ツアー」と称して企画したのですが、残念ながら上田君たちは参加できず、いつもどおりの単独行になりましたが、結論から言えば単独で正解だったと思っています。それは、遺構の範囲が半端でなく広く、しかもそれぞれがあまりに見事で、山歩きに慣れていない人たちを連れまわすのがちょっと酷なほど、歩き回ってきたからです。この見事な遺構は主に信玄が駿河に侵攻した永禄十一年以降のもので、今川氏の時代はこれほどの規模も技巧もなく、「今川氏本丸」といわれる北曲輪を中心に数段の削平地と土塁・堀切程度のものだったでしょう。武田氏の進駐により、丸子城は大々的な改修を受け、今に見る戦国後期の高度な遺構が残ることになりました。従って、僕が見てきた殆どのものは、実は龍王丸や北川殿の時代のものではなかったのだと思います。

しかし、ここまで完璧な戦国山城はそうそうありません。遺構は「よく残っている」なんて生易しいもんじゃなく、「建物以外そのまんま」に近い状態で、技巧面でも「堀切」「土塁」「竪堀」「横堀」「枡形」「馬出し」「馬蹄段」「武者走り」などの戦国城郭の定石が隙間なく連続し、まさに『中世城郭築城技法をすべて見せます!』的なものになっています。とくに馬出しとそれに伴う三日月堀は武田氏流の築城術を強く感じさせ、また長大な竪堀や迷路のように複雑な横堀は岩櫃城のそれにも匹敵するものです。

とにかく、今川氏の時代と早雲の活躍を偲ぶもよし、武田氏の全盛期を偲ぶもよし、あるいは純粋に戦国期城郭の仕掛けに驚くもよし、すべての中世城郭ファンと歴史ファンに超オススメの場所です。

 

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交通アクセス

東名高速道路「静岡」ICより車20分

JR東海道線「静岡」駅よりバス

周辺地情報

丸子の街そのものが「駿府匠宿」や古い街並みを残している観光地で、ここをゆっくり散策するのもいいかもしれません。お城マニアは駿府城と、駿府城の詰城だった賤機山城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「今川義元のすべて」(小和田哲男/新人物往来社)、小説「箱根の坂」(司馬遼太郎)、現地解説板

参考サイト

武田調略隊がゆく

 

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