室町時代初期に越後守護職に任じられた上杉氏が、揚北の押さえとして一門を白河荘山浦条に配置し、山浦上杉氏の祖となった。この山浦上杉氏の居城が笹岡城である。
応永三十(1424)年、足利幕府将軍の義量と関東公方・持氏の関係が悪化、越後においても室町幕府に与する守護・上杉房朝と関東公方に与する守護代・長尾邦景が対立した(応永の大乱)。このとき、守護方の上杉頼藤、長尾朝景らに呼応した鳥坂城主の中条房資がが一時、笹岡城に派兵し籠城した。
戦国期には一時、山浦氏は断絶していたが、武田信玄に信濃葛尾城を追われ、春日山城の上杉謙信を頼っていた村上義清を永禄八(1565)年、根知城将に、その子国清を笹岡城将に任命、国清に山浦の姓を与えて一門扱いとした。
天正六(1578)年から八(1580)年にかけての御館の乱ののち、笹岡城には上田衆の今井源右衛門久家が配された。一方、天正九(1581)年、新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が御館の乱での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵(新発田重家の乱)すると、笹岡城は新発田城に対する上杉景勝勢の前進基地となった。天正十(1582)年、景勝は木場城の菱沼、山吉らと笹岡城の今井らに新発田城を攻撃させようとしたが、重家は反撃に出て笹岡城に迫り、大室において激戦となった。重家は天正十一(1583)年四月はじめ、兵を水原城、笹岡城などに進めたが菱沼友重、富所定重らが防戦、重家は会津の芦名盛隆に援兵を求めた。
景勝は天正十一(1583)年八月に再び新発田城を攻めたが、九月二十五日(または十月四日)払暁に陣払いを命じた。退却軍が放生橋に差し掛かった頃、新発田勢の奇襲を受け、景勝勢は水原城主・杉原右近(水原満家)、菅名綱輔、上野九兵衛らを失って景勝は笹岡城に退却し、水原城は新発田方の手に渡った。
天正十三(1585)年六月、景勝は六千五百の軍で新発田城を包囲したが遠巻きにしただけで戦いはなく納馬した。景勝は笹岡城、雷城の丸田周防等に命じて水原城を攻めさせたが、城将の剣持市兵衛、梅津宗三らがよく防いだ。景勝は梅津宗三の身内の梅津伝兵衛に接触し内通を誘い、九月二日、伝兵衛は水原城に火を放ち、混乱の中で剣持市兵衛、梅津宗三は新発田城に退却して水原城は落城した。
天正十五(1587)年七月二十三日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、九月七日、景勝は新発田城攻撃に先立ち、加地城、赤谷城、五十公野城を落とし、十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で新発田城は落城、重家は自刃した。その後の笹岡城については不明。