揚北に打ち込まれた上杉の楔

笹岡城

ささおかじょう Sasaoka-Jo

別名:

新潟県北蒲原郡笹神村笹岡

(村指定文化財 笹岡城跡)

城の種別 平山城

築城時期

室町時代初期

築城者

山浦上杉氏

主要城主

山浦上杉氏、村上氏、今井氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、舟繋ぎ

二郭背後の堀切<<2003年05月04日>>

歴史

室町時代初期に越後守護職に任じられた上杉氏が、揚北の押さえとして一門を白河荘山浦条に配置し、山浦上杉氏の祖となった。この山浦上杉氏の居城が笹岡城である。

応永三十(1424)年、足利幕府将軍の義量と関東公方・持氏の関係が悪化、越後においても室町幕府に与する守護・上杉房朝と関東公方に与する守護代・長尾邦景が対立した(応永の大乱)。このとき、守護方の上杉頼藤、長尾朝景らに呼応した鳥坂城主の中条房資がが一時、笹岡城に派兵し籠城した。

戦国期には一時、山浦氏は断絶していたが、武田信玄に信濃葛尾城を追われ、春日山城の上杉謙信を頼っていた村上義清を永禄八(1565)年、根知城将に、その子国清を笹岡城将に任命、国清に山浦の姓を与えて一門扱いとした。

天正六(1578)年から八(1580)年にかけての御館の乱ののち、笹岡城には上田衆の今井源右衛門久家が配された。一方、天正九(1581)年、新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が御館の乱での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵(新発田重家の乱)すると、笹岡城新発田城に対する上杉景勝勢の前進基地となった。天正十(1582)年、景勝は木場城の菱沼、山吉らと笹岡城の今井らに新発田城を攻撃させようとしたが、重家は反撃に出て笹岡城に迫り、大室において激戦となった。重家は天正十一(1583)年四月はじめ、兵を水原城、笹岡城などに進めたが菱沼友重、富所定重らが防戦、重家は会津の芦名盛隆に援兵を求めた。

景勝は天正十一(1583)年八月に再び新発田城を攻めたが、九月二十五日(または十月四日)払暁に陣払いを命じた。退却軍が放生橋に差し掛かった頃、新発田勢の奇襲を受け、景勝勢は水原城主・杉原右近(水原満家)、菅名綱輔、上野九兵衛らを失って景勝は笹岡城に退却し、水原城は新発田方の手に渡った。

天正十三(1585)年六月、景勝は六千五百の軍で新発田城を包囲したが遠巻きにしただけで戦いはなく納馬した。景勝は笹岡城、雷城の丸田周防等に命じて水原城を攻めさせたが、城将の剣持市兵衛、梅津宗三らがよく防いだ。景勝は梅津宗三の身内の梅津伝兵衛に接触し内通を誘い、九月二日、伝兵衛は水原城に火を放ち、混乱の中で剣持市兵衛、梅津宗三は新発田城に退却して水原城は落城した。

天正十五(1587)年七月二十三日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、九月七日、景勝は新発田城攻撃に先立ち、加地城赤谷城五十公野城を落とし、十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で新発田城は落城、重家は自刃した。その後の笹岡城については不明。

笹岡城は守護・上杉氏が、独立性の高い揚北の諸豪族を監視するために築かれた、上杉氏の番城でした。この揚北に打ち込まれた楔が最も機能を発揮したのは、新発田重家の乱の際でした。

上杉景勝の最前線となった笹岡城から重家の本拠、新発田城まではおよそ10km、間には現在は福島潟としてわずかに名残を残す湖沼地帯が広がり、水運によって敵方の新発田城新潟城、味方の三条城木場城にも繋がる、非常に機動力の発揮できる立地にあります。それだけに重家にとっては目障りな存在であったでしょう。何度か笹岡城を攻撃しています。笹岡城周辺の最大の激戦は、重家が景勝軍の退却の際に猛烈な追い討ちをかけた「放生橋の合戦」でした。このとき景勝はあわや旗本まで斬り崩される寸前でしたが、藤田能登守信吉らの奮戦で辛くも笹岡城に帰り着いています。ポーカーフェイスな景勝も、内心は「ほうほうの体」だったでしょう。結局、重家の足掛け七年に渡る抵抗は実を結ばず、最後は重家の自刃でこの乱は終結します。その間、笹岡城でも常に臨戦態勢の緊張状態が続いていたことでしょう。

笹岡城は一時、学校の敷地などにも使われたとの事ですが、遺構の残存状態は比較的良く、現在は笹神村の文化財として公園化されています。細長い半島状台地は、かつては広大な湖沼地帯に突き出していたのでしょう。主郭の東側斜面には、舟繋ぎなどの遺構が残ります。主郭はほぼ方形で、おそらく守護家が一門を配したころは、単郭の居館であったのでしょう。戦国期、とくに新発田重家の乱に際して拡張されたものと思われますが、城域そのものは決して広くはありません。景勝の大軍がどこに駐屯していたのか、多少疑問に思わないでもありません。

田んぼに浮かぶ船のような笹岡城の遠景。かつては大水郷地帯に浮かぶ、上杉軍の不沈基地でもありました。

現在の笹岡城は、公園として手入れが行き届いています。家族や知人をダマしてお城めぐりをするには好都合といえます(笑)

かつて舟を寄せる際の目印になったという十郎杉。この他にも、「舟繋ぎの杉」などがかつてはあったらしい。

方形の主郭は公園に。児童の遊具などが置いてあるのはまあご愛嬌ということで・・・。

主郭の土塁は一部欠損しているものの、概ね残っています。

主郭背後の大土塁、神社の背後には大堀切があります。この堀切は単なる堀切ではなく、舟繋ぎへの通路を兼ねています。

主郭背後の堀切から、舟繋ぎ方面を見る。

舟繋ぎへの堀底道には、まだ水が残っています。

この田んぼのあたりが舟溜まりだったのでしょう。

主郭背後の細長い二郭。低い土居のようなものがありますが、「土塁」って感じじゃありません。

二郭と三郭を隔てる堀切、城郭遺構としてはここが一番見事な部分です。

三郭はなにやら由緒ありそうなお墓が立ち並んでいます。

台地続きはどこまでが城域か判然としません。しかし、ここまでの三つの曲輪や、鑑洞寺の建つ曲輪だけでは、景勝の主力軍を迎えきれないのは明らか。何らかの外郭があるのでは、と思うのですが。

城の南西部分の田も、かつての舟溜まりだったのではないかと思います。

鑑洞寺と神社の間、主郭堀切の下にひっそり佇む城主・今井氏のお墓。

主郭北側へ突出した曲輪とその堀も明瞭です。

 

交通アクセス

日本海東北道「豊栄新潟東港」ICまたは磐越自動車道「安田」IC車15分。

JR羽越線「神山」駅徒歩30分。

周辺地情報 宿敵、新発田重家が命を張った新発田城がオススメ。比較的遺構の残る安田城も近い。
関連サイト 新発田重家の乱」の頁もご覧下さい。

 

参考文献 「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)
参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ