僕の生まれ育った、黒川村に残る城跡。
山麓の居館跡は現在の下館集落東寄り、「天然記念物 八反榧」のあたりと言われており、その居館跡を分断するように県道が走っています。そうしてみると、僕は毎日、居館跡を自転車で横断して中学に通っていたことになります。居館跡には目立った遺構はありませんが、畑の中にわずかに残る土塁を発見したときには感無量でした。歴史を調べてみると、こんなのどかな田舎の、全国的に全くといっていいほど無名な小城にも関わらず、足利尊氏と直義の争い、室町幕府と関東公方の対立、越後守護と守護代家の対立などの政治向きの話に振り回され、その都度戦乱に巻き込まれていたことを知り、不思議な気持ちになりましたね。僕が中学校に通うためにチャリをこいでいた県道のあたりにも五千もの敵の大軍が布陣していたはずだし、初詣に行っていた大蔵神社だってきっと死闘の舞台になったことでしょう。田舎に帰って、暇つぶしにパチンコ打ちに行っていたあたりで、我が黒川氏の当主であった基実が闘い敗れて自刃していたなんて、いまさらながら申し訳ないような気になってしまいますね。
黒川城の要害部は、戸ノ裏川を堀とした典型的中世山城で、尾根を利用した小規模の曲輪や堀切の跡が認められます。山城は「前要害山」と「奥要害山」に分かれ、尾根続きの蔵王山には蔵王山城があります。おそらく蔵王権現の要害は南北朝のころまでのもので、戦国期には使われていなかったと想像されます。2つの要害山も使われていなかったのでは?とも思いましたが、御館の乱に際しては景勝方の中条氏・築地氏に攻められており、その籠城戦では要害が使われたと想像できます。
中世城郭に興味を持ち始めてから、下館集落の不自然な道の折れや、地名、「大蔵神社」付近の地形から、「大蔵神社近辺が城址に違いない」と思うようになり調査をしたところズバリ正解。しかし、実際に調査に行ってみると居館部は完全に道路や農地・宅地になっており、また要害に行くための道も整備されておらず、わずかに「奥山荘城館遺跡」の標柱があるのみ。なぜか興味を示した父と二人で出かけたのですが、仕方なく、藪の覆い茂る道無き道をよじ登り、尾根筋の急斜面を四ん這いになりながら登って、やっとのことで辿り付きました。一応「国指定史跡」なんだから、きちんとした見学路や解説板の設置を望みます。
2002年の年も押し迫った12月30日、世間は師走で大忙しだというのに、里帰りで手持ち無沙汰な僕は、無謀にも積雪の黒川城攻めを敢行しました。その格闘記はこちら。
2004年正月1日、なぜか越後は積雪ゼロ、穏やかな天気。これはチャンス!とばかり、元日だってことを無視して挑んできました。ほぼ全域をくまなく踏査、その成果はこちらをご覧あれ。なお、黒川城は史跡としての整備計画が進行中だそうです。余計なものは一切建てて欲しくないのですが、見学路や休憩用ベンチ、案内板などが設置されるのは大歓迎です。がんばれ、黒川村!
黒川城探訪 黒川城の冬