永禄四(1561)年、後の庄屋・山際家の先祖が信州から十六人の仲間とともに入植したのがはじまりという。
山吉氏は守護代長尾氏の蒲原郡代として三条城代を歴任したが、天正五(1577)年六月、山吉豊守が没し、嗣子が無かったため三条城を召し上げられ、弟の景長は所領を半減されて木場に移った。
天正六(1578)年三月、上杉謙信は春日山城内で卒中のため倒れ、三月十三日に死去した。この跡継ぎをめぐって上杉景勝と上杉景虎が対立し、越後諸将も二手に別れて内戦となった(御館の乱)。天正九(1581)年、新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が御館の乱での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵(新発田重家の乱)、その際に、竹俣壱岐守の利権地であった新潟津を占拠するため、重家は新潟城、沼垂城を取り立て、新発田城の糧道と港湾の利権を確保した。これに対して景勝は、天正十(1582)年二月、菱沼(蓼沼)藤七友重、山吉玄蕃允景長らを木場城に派遣して、新潟城と新発田勢の動向を監視した。景勝は木場城の菱沼、山吉らと笹岡城の今井らに新発田城を攻撃させようとしたが、重家は反撃に出て笹岡城に迫り、大室において激戦となった。
天正十(1582)年四月、新発田重家は兵を水原城、笹岡城などに進めたが木場城将の菱沼友重、富所定重らが防戦、重家は会津の芦名盛隆に援兵を求めた。
天正十一(1583)年二月八日、新潟城将の新発田刑部は木場城を攻め、三月には重家が再び木場城を攻めた。木場城将の菱沼、山吉らも新潟城を攻めたが戦果はなかった。四月には景勝自らが出陣して新潟城を攻めたが落ちなかった。
天正十三(1585)年十一月二十日、新潟城は陥落、新発田城はこの後、天正十五(1587)年十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で落城、新発田重家は自刃した。
木場城は新発田重家滅亡後も新潟津を監視するための番城として使われた。また、近世に堀氏が越後に入封した際に、堀玄蕃が館を置いたともいわれる。