鎌倉幕府創立期に戦功のあった伊豆の大見家秀の子孫が白河荘地頭職に任ぜられ、城氏滅亡後の十二〜十三世紀に入部した。大見惣領家は白河荘の上条の大部分と山浦四ヶ条を領し、のちに下条水原の地を庶家の水原氏に分与した。南北朝の動乱を経て、応永五(1398)年に水原氏の次男に山浦四ヶ条を譲り、惣領家は安田氏を、水原の庶家は水原氏を名乗るようになった。
戦国期には水原氏は上杉謙信に仕え、正六(1578)年から八(1580)年にかけての御館の乱では景勝に味方した。天正九(1581)年、新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が御館の乱での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵(新発田重家の乱)、水原満家(杉原右近)は上杉景勝に味方したが、天正十三(1585)年九月二十五日(または十月四日)、新発田城の包囲を解いて退却する途上の放生橋附近で新発田重家らの追撃を受け、泥田の中で水原満家は殿軍として奮戦するが討ち取られ、水原城は新発田方の手に渡った。
天正十二(1584)年八月十八日、新発田方の細越将監が接収していた水原城を景勝方の藤田能登守ら八千が攻めた。細越将監は陣頭に立って敵を切り崩し、藤田能登守の右股を突き貫いたが、やがて寄せ手に囲まれ壮絶な討ち死にを遂げた。しかし水原城は落城せず、景勝は水原城の抑えに笹岡城番の酒井新左衛門を置いた。
天正十三(1585)年六月、景勝は笹岡城、雷城の丸田周防等に命じて水原城を攻めさせたが、城将の剣持市兵衛、梅津宗三らがよく防いだ。景勝は梅津宗三の身内の梅津伝兵衛に接触し内通を誘い、九月二日、伝兵衛は水原城に火を放ち、混乱の中で剣持市兵衛、梅津宗三は新発田城に退却して水原城は落城した。景勝は水原城に大関弥七を入れ、水原常陸介親憲と名乗らせた。
慶長三(1598)年の上杉景勝の会津移封で水原氏も同道し廃城となった。江戸中期の延享三(1746)年には水原城跡地に代官所が置かれ、慶応四(1868)年に会津藩預かりとなるまで続いた。