会津の玄関口を固める堅城

津川城

つがわじょう Tsugawa-Jo

別名:狐戻城、麒麟山城

新潟県東蒲原郡津川町津川

(麒麟山公園)

城の種別 平山城

築城時期

建長四(1252)年

築城者

藤倉(金上)氏

主要城主

金上氏、北川氏、藤田氏、岡氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、石垣、井戸

水の手曲輪に面した石垣<<2003年05月04日>>

歴史

鎌倉初期に会津の地を与えられた三浦氏の一族、佐原氏(のちに芦名氏を名乗る)の一族、藤倉(のちに金上を名乗る)盛弘が建長四(1252)年に築いたといわれる。津川城は会津芦名氏の越後への進出口となり、しばしば越後菅名荘に侵攻、長尾為景も津川城を攻撃するなど互いに隣国への勢力拡張を図った。金上氏は芦名氏家中で最も多い三万八千石を領していた。上杉謙信が津川口からの芦名軍の侵攻に備えて菅名荘に築いた神戸城、雷城は、永禄七(1564)年四月、芦名勢によって一時占領されている。天正六(1578)年から八(1580)年にかけての御館の乱でも両城は攻撃されている。

この御館の乱ののち、恩賞に不満を持った新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が上杉景勝に対して挙兵すると(新発田重家の乱)、景勝は会津の芦名盛隆が新発田重家に援助することを憂いて、林泉寺の住持・宗鶴を会津に派遣し、その配下の津川城主・金上氏に誓書を求めた。金上盛備(もりはる)は表面上中立を保ちながらも、新発田重家を援助した。しかし、後に芦名氏は重家に内通していることが発覚する。

天正十五(1587)年七月二十三日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、会津芦名氏の援軍を断つため赤谷城に向かった。これを知った津川城主・金上氏は後詰を出して景勝軍と一ノ渡戸で闘ったが敗れ、重ねて三百余騎で諏訪峠に至るが、小桶に上杉軍多数が終結していると聞き撤退、赤谷城は孤立、小田切三河守以下八百は悉く討ち死にし赤谷城は落城した。これによって、新発田城五十公野城は完全に孤立、十月二十四日に景勝は五十公野道如斎の五十公野城を落とし、十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で新発田城は落城、重家は自刃した。

金上盛備は文武の道に秀で、のちに芦名家使者として京に上った際に豊臣秀吉と和歌の問答をして名を挙げ、従五位下遠江守にも任ぜられたが、天正十七(1589)年、伊達政宗との決戦、摺上原合戦で芦名氏は滅び、金上盛備も戦死した。

天正十八(1590)年、会津に蒲生氏郷が入封すると、津川城には北川平左衛門が七千二百石で城主に任ぜられたが、慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封後は藤田能登守信吉が一万一千石で城主に任ぜられた。信吉は関ヶ原の役直前の慶長五(1600)年、徳川家康に通じて脱国騒ぎを起こしている。藤田信吉が去った後の津川城主には鮎川帯刀が津川城主となり、堀氏の入封した越後の旧臣を煽動して越後旧臣一揆を起こさせる役目を負った。

関ヶ原の役ののち、上杉景勝は米沢へ移封となり、会津に蒲生氏が入封すると、津川城主には岡半兵衛重政が配置されたが、寛永四(1627)年、伊予松山城より加藤嘉明が会津に入封、加藤氏は江戸幕府の命により津川城を破却、廃城となった。

この津川の地は、今でこそ新潟県東蒲原郡に属してますが、実は古くよりここは会津領であり、新潟県に編入されたのは明治十九(1886)年のことでした。そうしたことから、この津川城をめぐる歴史も遺構も、他の越後の城郭とは一味も二味も違うものになっています。

戦国期の代々の城主は金上氏、会津の津川口、つまり越後との領界を守る、重要な役割を負っていました。戦国期には長尾為景、上杉謙信とたびたび小競り合いを起こしていたようです。新発田重家の乱に際しても、新発田城の糧道確保のための要である赤谷城をひそかに支援していました。

景勝が会津に移封となった後は、藤田信吉が城代を務めます。この藤田信吉という男も多彩な遍歴を持つ人物で、出自は武蔵天神山城主、藤田重利の次男です。この藤田重利はのちに北条氏康に帰服し、氏康三男の氏邦を養子に迎え入れます。この氏邦がのちに鉢形城主となり、武田信玄や豊臣秀吉の軍勢と戦うのですがそれはまた別の話。信吉は、兄重連が謀殺(北条氏による毒殺説)され、身の危険を感じてまず武田氏配下の真田昌幸に仕え、武田氏滅亡後は滝川一益に仕え、さらに上杉景勝に仕えるようになるのです。この間、真田昌幸に通じて昌幸の沼田城奪取をアシストしたり、景勝の新発田城攻めの最前線で縦横無尽に活躍したり、佐渡へ渡って鎮定、「黄金の島」を景勝にプレゼントしたり、天正十八(1590)年の小田原の役では案内役としてかつての旧領である関東の地を先導したりと、なかなか才気ある人物であったようです。しかも、小田原の役ののち、主戦派であった北条氏邦、つまり自分を故地から追った人物の命乞いまでしたという。なかなか見上げた男です。そんな世渡り上手の信吉のアンテナには、「関ヶ原前夜」の景勝、直江兼続らの動きが危険なものに感じたのでしょう。信吉は突如一族郎党を引き連れて津川城を出奔、途中追っ手の景勝勢と闘いながらも、なんとか江戸の徳川秀忠のもとに駆け込み、「上杉謀叛」を注進、ここから歴史は大きくうねり、「直江状」事件を経て家康の会津討伐、関ヶ原の東西決戦、そして徳川の江戸幕府成立へと流れていきました。それは、「津川発・歴史が動いた瞬間」といってもいいかもしれません。

津川城は大河・阿賀野川とその支流・常浪川の合流点の名峰「麒麟山」に築かれたお城で、周囲は大河と崖に守られた、要害堅固なお城です。遺構面でも、石垣が多用されているなど、他の越後の中世城郭には見られない特徴を持っています。麒麟山公園として整備もされていますので、安心して見学できますが、尾根続きの麒麟山山頂方面は岩場の急斜面が連続し、しかも柵のない崖に面した細尾根を歩かなくてはいけないため、注意が必要です。風が強い日なんかは山頂方面はやめておいたほうがいいかもしれません。そのかわり、まるで水墨画を思わせるその景色は絶景のひとこと。お城と景色、両方楽しめる津川城、なかなかイイです!

阿賀野川と常浪川合流点に聳える名峰麒麟山が津川城。この撮影場所は津川河港跡。会津の玄関口として、往時は一日百五十隻(!)の舟が発着したそうです。今は鉄道建設やダム建設によって役目を終え、町の史跡になっています。

城山橋から見上げる麒麟山。「狐戻城」の別名の通り、狐も思わず戻ってしまいそうな、峻険な岩山です。城郭遺構は下流先端、写真左手にあります。

麒麟山公園の入り口、模擬木戸から入城!

いきなり右手に沼があります。沼、というより川の一部なんでしょうね。天然の水堀ですかね。

搦手一の木戸の土塁は規模が大きく屈曲があり、まるで近世城郭を思わせる威厳があります。

段丘上にある侍屋敷跡。侍屋敷といってもいわゆる城下町みたいなものではなく、物資の集積や在番の将兵の根古屋などがあった場所。

搦手二の木戸の土塁。屈曲はありません。

この土塁には一部に石積みが見られます。

急坂を登ると二ノ丸馬場跡に出ます。城内主要部への出入りを監視する、重要な防衛拠点です。

二ノ丸への坂道のわきをズドーンと落ちていく竪堀。こんな岩山に竪堀っていうのも、ちょっと意表を衝かれます。

二ノ丸東端附近の櫓台。どことなく近世城郭っぽい印象を与えます。実際、近世初頭にかけて使われた津川城では、近世城郭としての整備も行われたでしょう。

櫓台背後の巨大竪堀。こちらもスドドドーンと斜面を駆け下りていきます。見事です。ただ、表土が崩れやすいのであんまり無理に歩かないで欲しいです(遺構と自然を大切に)。

二ノ丸から見上げる本丸の塁壁。

こちらは水の手曲輪へと向かう虎口の門跡。

本丸へ向けての石段。これも遺構なのでしょうね。

おお素晴らしい!本丸直下、出丸から水の手曲輪へかけての高石垣。明らかに近世城郭の手法を用いている新発田城や村上城を別とすれば、新潟県内のお城でこんな高石垣は見たことがありません。

岩山の先端に位置する主郭。一段高い場所には展望台が置かれています。

展望台から阿賀野川下流方面を。水墨画みたいだな、なんて思いましたが、麒麟山山頂付近からの景色はもっとスゴイです。

「麒麟山城跡」の石碑と、その隣には「麒麟山狐戻城跡」の小さな石碑もありますので、石碑派の人はお見逃しなく。

主郭背後の堀切。北側は通路となっていますが、もともとは竪堀に繋がっていたようです。

今でも水の湧き出る水の手曲輪の井戸。水なんて回りの川から汲めばいいじゃん、とも思いますが、そういうもんじゃないんでしょう、きっと。

水の手曲輪上部の苔生す石垣。先ほど見た出丸下の石垣と、二段連なっているようです。いや、緑と白っぽい石垣のコントラストが綺麗ですね。

麒麟山へ向かう尾根に建立されている金上神社。歴代城主が崇拝したという。

麒麟山山頂へは、こんな岩山を登らなくちゃいけないのです。お子さん連れではちと厳しいかもしれません。

おお絶景、でも足許絶壁!超アブナイよここ・・・。

津川の市街地方面を見る。狐どころか、この足許じゃ人間様だって戻りたくもなるわなぁ・・・。

え、またこんなの登るんスか!?ロッククライミングに来たワケじゃないんだけど。。。こっちの山頂方面には城郭遺構らしきものは全く無いです。

といいつつ山頂からの景色はもう最高です。阿賀野川と常浪川の合流点を見る。いやもう、水墨画の世界そのものですな!左手の台地上に城主居館があったらしい。

山頂から見下ろす大河・阿賀野川の流れ。雄大そのものですね。

さて帰ろうと、県道を走っていて目に留まった「御小屋跡」。なんにも解説はないがやっぱり城館に違いない、と思い、段丘の階段をエッチラエッチラ登る(滑りやすいっス)。

おお、なにやら数段の削平地がある!後で知ったのですが、ここはやはり平時の居館であるとともに、「琴平山城」とも呼ばれ、景勝が会津移封の際に宿泊したとも伝えられているそうです。

その御小屋の堀。自然地形を巧みに利用したものですが、所々に折り歪みがつけられていて、城郭遺構であることを表しています。

御小屋から堀を挟んだ対岸の墓地には土塁がありました。写真は段丘端に面したひときわ高い土塁。櫓台だったんでしょうか。

おまけ。津川に残る狐の嫁入り伝説。ソレガシが見学した前日には嫁入り祭りをやっていたらしい。新聞の写真で見たけど、メチャクチャ綺麗でした。

 

交通アクセス

磐越自動車道「津川」IC車5分。

JR磐越西線「津川」駅徒歩30分。

周辺地情報 一気に会津若松城に行ってしまうのも手ですが、新潟県内だと安田城あたりがお手頃。

関連サイト

やーたろー殿の「越後の虎 越後勢の軌跡と史跡」に素晴らしい散策図があります。

新発田重家の乱」の頁もご覧下さい。

 

参考文献 「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)、「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)
参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ