鎌倉初期に会津の地を与えられた三浦氏の一族、佐原氏(のちに芦名氏を名乗る)の一族、藤倉(のちに金上を名乗る)盛弘が建長四(1252)年に築いたといわれる。津川城は会津芦名氏の越後への進出口となり、しばしば越後菅名荘に侵攻、長尾為景も津川城を攻撃するなど互いに隣国への勢力拡張を図った。金上氏は芦名氏家中で最も多い三万八千石を領していた。上杉謙信が津川口からの芦名軍の侵攻に備えて菅名荘に築いた神戸城、雷城は、永禄七(1564)年四月、芦名勢によって一時占領されている。天正六(1578)年から八(1580)年にかけての御館の乱でも両城は攻撃されている。
この御館の乱ののち、恩賞に不満を持った新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が上杉景勝に対して挙兵すると(新発田重家の乱)、景勝は会津の芦名盛隆が新発田重家に援助することを憂いて、林泉寺の住持・宗鶴を会津に派遣し、その配下の津川城主・金上氏に誓書を求めた。金上盛備(もりはる)は表面上中立を保ちながらも、新発田重家を援助した。しかし、後に芦名氏は重家に内通していることが発覚する。
天正十五(1587)年七月二十三日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、会津芦名氏の援軍を断つため赤谷城に向かった。これを知った津川城主・金上氏は後詰を出して景勝軍と一ノ渡戸で闘ったが敗れ、重ねて三百余騎で諏訪峠に至るが、小桶に上杉軍多数が終結していると聞き撤退、赤谷城は孤立、小田切三河守以下八百は悉く討ち死にし赤谷城は落城した。これによって、新発田城、五十公野城は完全に孤立、十月二十四日に景勝は五十公野道如斎の五十公野城を落とし、十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で新発田城は落城、重家は自刃した。
金上盛備は文武の道に秀で、のちに芦名家使者として京に上った際に豊臣秀吉と和歌の問答をして名を挙げ、従五位下遠江守にも任ぜられたが、天正十七(1589)年、伊達政宗との決戦、摺上原合戦で芦名氏は滅び、金上盛備も戦死した。
天正十八(1590)年、会津に蒲生氏郷が入封すると、津川城には北川平左衛門が七千二百石で城主に任ぜられたが、慶長三(1598)年、上杉景勝の会津移封後は藤田能登守信吉が一万一千石で城主に任ぜられた。信吉は関ヶ原の役直前の慶長五(1600)年、徳川家康に通じて脱国騒ぎを起こしている。藤田信吉が去った後の津川城主には鮎川帯刀が津川城主となり、堀氏の入封した越後の旧臣を煽動して越後旧臣一揆を起こさせる役目を負った。
関ヶ原の役ののち、上杉景勝は米沢へ移封となり、会津に蒲生氏が入封すると、津川城主には岡半兵衛重政が配置されたが、寛永四(1627)年、伊予松山城より加藤嘉明が会津に入封、加藤氏は江戸幕府の命により津川城を破却、廃城となった。