はぁ、新潟城!?聞いたこと無いな〜!そういえば新潟県って、県庁所在地にお城がないのは珍しいと思ってたけど、一応あったのかな〜?そんな疑問をまず持ってしまいました。しかし、新潟城は間違いなく存在していました。現在の新潟市のどこかに・・・。とは言っても、いろんな県の県庁所在地にある、石垣ドドーン、水堀がキラキラの近世大名による見せるお城ではなくて、陣城というか砦に近いもの、「新発田重家の乱」というローカル戦争で構築された、地味〜なお城でした。どれくらい地味かというと、場所さえ分かっていないほど(笑)。
新潟市は信濃川、阿賀野川が織り成すデルタ地帯、標高0mの超低地に築かれた都市です。中世の新潟市附近はこの信濃川、阿賀野川が暴れまわって広大な氾濫原、湿地帯の中にポツン、ポツンと砂丘や三角州が浮かぶ大水郷地帯でした。同時にここは古代朝廷によって「沼足柵」が築かれる要衝でもあり、かつ蒲原平野最大の港湾地帯でもありました。この港湾をめぐって、新発田重家と上杉景勝の激しい争奪戦が繰り広げられました。
重家は港湾確保と糧道確保のため、新潟津を占領、景勝も反撃に出ますが、水に浮かぶ新潟城はなかなか難攻不落で落ちません。そこで景勝はふたりの商人を召しだします。景勝の先々代、為景の時代から新潟代官を任ぜられていた商人の玉木屋七兵衛、若狭屋清左衛門のふたりは、商船に武具・兵員を載せて偽装し、あたかもフツーの舟のような顔をして新潟城に近づき、城内の内通者を誘って一気に新潟城を落としてしまいました。この活躍に対し、景勝は両人に町屋敷五間ずつを増し、その上町役を免ずる等の恩賞を与えたそうです。ちなみにこの玉木屋七兵衛、慶長三(1598)年に溝口秀勝が越後入封の折、弥彦あたりで群盗に襲われた際に秀勝方の危難を救っているそうです。この「越後の茶屋四郎次郎」、なかなかやるもんです。多分この後の商売も順風満帆だったでしょう。
気の毒なのは新発田刑部、まさか「あきんど」ごときに首級を挙げられるとは思ってもみなかったでしょう。新潟津の権益を持っていた竹俣壱岐守も気の毒ですね。もともと新発田と同族なのに、越中魚津城で籠城していて手も足も出せない間にその同族の新発田に領地を荒らされて、しかも本人は本能寺の変の翌日、信長の死も知らずに魚津城で自刃してしまうのですから。。。
しかしこの新潟城、場所は全然分かっていません。一応、「白山神社」「白山公園」あたりが比定地とされています。そんなわけで行ってみましたが、当然の如く遺構などあるわけがありません。大河川が暴れまわった水郷地帯の中に、押し流されてしまったんでしょうね。