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新潟城

(新潟城比定地)

にいがたじょう Niigata-Jo

別名:

新潟県新潟市一番堀通町

 

城の種別 平城

築城時期

天正九(1581)年

築城者

新発田氏

主要城主

新発田氏

遺構

なし、所在地不明

新潟城比定地、白山公園<<2003年05月05日>>

歴史

天正九(1581)年、新発田城主・新発田因幡守重家、五十公野城主・五十公野道如斎が御館の乱での恩賞を不満として上杉景勝に対して挙兵(新発田重家の乱)、その際に、竹俣壱岐守の利権地であった新潟津を占拠するため、沼垂城とともに信濃川と阿賀野川の合流する川中島に新発田重家が取り立てた。新潟城には城将に新発田刑部綱之、また沼垂城にも配下の部将を置いて、新発田城の糧道と港湾の利権を確保した。これに対して景勝は、天正十(1582)年二月、菱沼(蓼沼)藤七友重、山吉玄蕃允景長らを木場城に派遣して、新潟城と新発田勢の動向を監視した。

天正十一(1583)年二月八日、新潟城将の新発田刑部は木場城を攻め、三月には重家が再び木場城を攻めた。木場城将の菱沼、山吉らも新潟城を攻めたが戦果はなかった。四月、景勝は自ら新潟津に出陣、新潟城を攻撃するが川岸より三丁ばかりも離れていて鉄砲も届かず苦戦する。この時、景勝方に発知源六なる火矢の達人がいて、兵船十余艘を並べて綱で縛り付け、その上に櫓を組んで川上より流し、川中島の新潟城に押し寄せて櫓の上から火矢を打ち込んだ。火矢は昼夜にわたり五日間城中に打ち込まれ、城内は火の海となるが懸命の消火作業で落城せず、逆に城方の鉄砲によって源六も倒された。景勝は仕方なく兵を納めた。

天正十三(1585)年十一月二十日、三条城黒滝城、天神山城の人数を護摩堂城主・宮島三河守が率いて千五百が砂丘沿いに新潟津に押し寄せた。このとき新潟、沼垂に玉木屋、若狭屋という町人がいて、長尾為景の時代から代官職を任じられていたが、この両者が景勝方の藤田能登守と旧縁があったので、内通させることとした。玉木屋、若狭屋の船は武器を俵に入れて商船のように偽装し、城内の内通者を誘って新発田刑部を騙まし討ちした。この後、船団は沼垂城に向かい、城将の武者善兵衛は守りを固めたが、従弟の武者半平は逆心して善兵衛を討ち取り降参、沼垂城も落城し、重家は新潟津周辺の水利権を失った。

新発田城はこの後、天正十五(1587)年十月二十五日夜半の上杉軍の一斉攻撃で落城、新発田重家は自刃した。

新潟城の正確な位置は分かっていない。新潟島の何処かにあったと思われ、白山神社境内地がその地に比定されている。

はぁ、新潟城!?聞いたこと無いな〜!そういえば新潟県って、県庁所在地にお城がないのは珍しいと思ってたけど、一応あったのかな〜?そんな疑問をまず持ってしまいました。しかし、新潟城は間違いなく存在していました。現在の新潟市のどこかに・・・。とは言っても、いろんな県の県庁所在地にある、石垣ドドーン、水堀がキラキラの近世大名による見せるお城ではなくて、陣城というか砦に近いもの、「新発田重家の乱」というローカル戦争で構築された、地味〜なお城でした。どれくらい地味かというと、場所さえ分かっていないほど(笑)。

新潟市は信濃川、阿賀野川が織り成すデルタ地帯、標高0mの超低地に築かれた都市です。中世の新潟市附近はこの信濃川、阿賀野川が暴れまわって広大な氾濫原、湿地帯の中にポツン、ポツンと砂丘や三角州が浮かぶ大水郷地帯でした。同時にここは古代朝廷によって「沼足柵」が築かれる要衝でもあり、かつ蒲原平野最大の港湾地帯でもありました。この港湾をめぐって、新発田重家と上杉景勝の激しい争奪戦が繰り広げられました。

重家は港湾確保と糧道確保のため、新潟津を占領、景勝も反撃に出ますが、水に浮かぶ新潟城はなかなか難攻不落で落ちません。そこで景勝はふたりの商人を召しだします。景勝の先々代、為景の時代から新潟代官を任ぜられていた商人の玉木屋七兵衛、若狭屋清左衛門のふたりは、商船に武具・兵員を載せて偽装し、あたかもフツーの舟のような顔をして新潟城に近づき、城内の内通者を誘って一気に新潟城を落としてしまいました。この活躍に対し、景勝は両人に町屋敷五間ずつを増し、その上町役を免ずる等の恩賞を与えたそうです。ちなみにこの玉木屋七兵衛、慶長三(1598)年に溝口秀勝が越後入封の折、弥彦あたりで群盗に襲われた際に秀勝方の危難を救っているそうです。この「越後の茶屋四郎次郎」、なかなかやるもんです。多分この後の商売も順風満帆だったでしょう。

気の毒なのは新発田刑部、まさか「あきんど」ごときに首級を挙げられるとは思ってもみなかったでしょう。新潟津の権益を持っていた竹俣壱岐守も気の毒ですね。もともと新発田と同族なのに、越中魚津城で籠城していて手も足も出せない間にその同族の新発田に領地を荒らされて、しかも本人は本能寺の変の翌日、信長の死も知らずに魚津城で自刃してしまうのですから。。。

しかしこの新潟城、場所は全然分かっていません。一応、「白山神社」「白山公園」あたりが比定地とされています。そんなわけで行ってみましたが、当然の如く遺構などあるわけがありません。大河川が暴れまわった水郷地帯の中に、押し流されてしまったんでしょうね。

新潟県民なら誰でも知っている(?)白山神社です。お城のことなんかどこにも書いてません。でも「白山」って、「シロヤマ」とも読めるしなあ・・・もしかすると??

白山公園の庭園です。

白山公園の築山の上です。「もしかしてこれが土塁?」んなわけありません。。。。幻の新潟城、ホントはどこにあるのだろう?

信濃川河川敷はこどもの日の家族連れで賑わう。最近新潟市には大きなコンベンション施設が出来たりで、結構ホットです。正面の昭和大橋は「新潟地震」で完成後わずか十数日で落ちてしまった悲劇の橋でもあります。

 

交通アクセス

北陸自動車道・磐越自動車道「新潟中央」IC車10分。

JR越後線「白山」駅徒歩5分、「新潟」駅徒歩30分またはバス。

周辺地情報 新潟市街地にはお城は無いので、新発田城へ。
関連サイト 新発田重家の乱」の頁もご覧下さい。

 

参考文献 「菖蒲城物語」(角田夏夫/北方文化博物館)、「図説中世の越後」(大家健/野島出版)
参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ