甲斐源氏発祥の地、とされる須玉町。若神子城は新羅三郎義光が館を構えた地であるとも言われ、由緒正しい(?)城です。
新羅三郎義光が館を構えたかどうかはともかく、ここは戦国時代には武田軍の信州侵攻に当たっての一大補給基地、ベースキャンプでした。いわゆる「棒道」の起点でもあり、また諏訪口方面、信州峠から塩川沿い方面からの狼煙が集結される、「光ハブ」でもあります。信玄はここ若神子に大軍を集結させては、信州に攻め込んでいったのでしょう。上記の「歴史」に何度も登場するように、武田信玄が佐久や伊奈、筑摩、安曇、川中島などを平定するにあたり、ほとんど必ずといっていいほどこの若神子城を経由しています。地図で見るとまさに絶好の立地で、若神子城に立ち寄った記録がいちいち残っていない場合でも、ほとんど必ずここを通っただろうな、と思わせるものがあります。晴信の前、信虎の代にも諏訪軍と激しくやり合っているので、その頃からきっとベースキャンプ的な位置づけにあったんじゃないでしょうか。きっと万余の風林火山の中を、荷駄や御用商人、流れ者の物売りから果ては遊女、間者、透破の類まで、「わさわさっ」と動き回る、そんな場所だったんじゃないかな、と思います。狼煙による光通信網は、川中島と躑躅ヶ崎館をおよそ二時間で異変を伝達したといいます。単純に直線距離で時速5-60km/hってところでしょうか?須玉町ではこの「狼煙」をある種のシンボルとしていて、「のろしの里」の文字が至る所にありました。
若神子城は「大城」「北城」「南城」の三つの城域があるらしいですが、今回見学したのは「須玉町ふるさと公園」になっている「大城」です。街のシンボル、「つるべ式狼煙台」が復元されています。この狼煙台、江戸期の絵図面から復元したらしいのですが、ホントにこんなに機能的な形だったのかなあ?ちょっと疑問に思わないでもないです。公園は須玉町主要部を見下ろす小高い丘の上にあり、遠く富士山の美しい姿を拝むことも出来ます。ただ、公園化による改変が結構激しく、わずかに「薬研堀(というより畝堀)」などがありますが、ちょっとした地面の凹凸が「土塁?腰曲輪?」という感じで、イマイチ遺構の範囲が掴みづらい場所でもあります。個人的には史跡を公園として整備し、一般の人にも親しんでもらおう、という考え方には大賛成なのですが、遺構がどれなんだか分からないようになってしまうとこれはもう。。。なんというか、史跡の利用についての難しさを、改めて感じさせてくれる場所でもありました。