風雪流れ守護のヤケクソ籠城

中塔城

なかとうじょう Nakatou-Jo

別名:

長野県松本市梓川梓〜安曇野市三郷小倉

 

城の種別

山城

築城時期

不明(天文年間?)

築城者

小笠原氏(?)

主要城主

小笠原氏、二木氏

遺構

曲輪、堀切

「とんがり屋敷」から中塔城を望む<<2005年09月18日>>

歴史

築城時期は明らかでない。天文年間に小笠原権之丞の住居と伝えられ、あるいは小笠原氏重臣の二木氏の居城ともいう。

天文十七(1548)年七月十八日、武田晴信(信玄)は塩尻峠の合戦で林城主・小笠原長時を破り、天文十九(1550)年七月十五日には小笠原氏の属城である「イヌイの城(埴原城か)」を陥落させると、小笠原氏の属城は大城(林城)深志城、岡田城、桐原城、山家城の五ヶ城が相次いで自落した。長時は一時平瀬城に入ったが、のちに村上義清を頼って塩田城に逃れた。

天文十九(1550)年十月、武田晴信が戸石城の合戦で村上義清に大敗すると(戸石崩れ)、村上義清は佐久地方に侵攻、ついで義清のもとに身を寄せていた小笠原長時とともに十月二十一日に平瀬城に入った。義清・長時の出兵により、筑摩郡では小笠原氏の旧臣らが結集した。これを受けて深志城将の馬場民部少輔信房、日向大和守是吉は籠城の態勢を整えて甲府に報じた。この報を受けた武田晴信は十月二十三日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣し、中下條まで出馬した。この晴信の出馬により村上勢は動揺、武田軍が小県から村上領に侵攻するという噂が流れ、村上軍は突如平瀬城から撤退、十一月八日には小諸城に入った。長時は単独で武田軍と対戦を決意するが、武田軍出馬と村上軍の離脱により旧臣諸将の脱落が相次ぎ、長時は平瀬城を出て、野々宮の合戦で武田の前進部隊を破った後、中塔城に立て籠もった。長時は中塔城に半年あるいは三年立て籠もり、その後越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って中塔城を脱出したという。城主の二木氏は武田氏に仕官を許され、武田氏滅亡後は信濃松本城に復帰した小笠原貞慶(長時の子)に仕えたという。これらの話は江戸期初期に二木豊後守重吉(寿斎)が父・豊後守重高と自身の戦功を書き上げた「二木家記(二木寿斎記)」や「溝口家記」によるが、史実かどうかはわからない。

塩尻峠の合戦で武田信玄に敗れ、本拠の林城も棄てざるを得なくなった小笠原長時、この「落魄の守護」はそれでも執拗に、安曇・筑摩の山地を渡り歩きながら領土回復のチャンスを待ちます。この頃、武田信玄の本当の狙いはすでに北信の大勢力・村上義清であり、その先には「川中島」も見えていた時期ではありましたが、そのためには安曇・筑摩を確保する必要があります。で、小笠原長時らはこの附近の山中に出没しては小競り合いを繰り返していたようで、さらにその居場所も点々と変わるため、信玄としても捕捉しきれなかったような節があります。実力的にはもはや小笠原残党軍など敵ではないのでしょうが、神出鬼没の山岳戦を仕掛けられるようでは兵站線の確保も覚束きません。信玄にしてみれば「ええい、五月蝿いわ!」という心境だったでしょう。

長時も村上義清と組んで、果敢に領土回復運動を展開しますが、いかんせん一族や仁科氏をはじめとする国人領主が武田の調略で次々に離反、頑強に抵抗する平瀬城なども落とされて、もはや先細りの予感。乾坤一擲「野々宮の合戦」で武田軍の先鋒隊(これは小笠原氏の旧臣が中心だったらしい)を打ち破るも、長時にはその先が開けてくるようには思えなかったのでしょう。「今日の合戦に勝つには勝ったが、吾等の劣勢はもはや明らか、これまでである。潔く自刃する」と覚悟を定めた長時を諌めたのは中塔城主の二木豊後守重高ら。「大将が御腹を召されては、誰が逆意の者どもを斬り従えるのでござる、まして忠節を守って死んだ犬甘(犬甘城主)、平瀬(平瀬城主)らにいかにして報いることができましょうか。」「我が中東(塔)の小屋には五千の兵を三年食わせる分の兵糧も矢玉を蓄えてござる。」「ここに登って、浮世の隙をお伺いあれ」と諭し、長時は二木氏らとともにこの中塔城に立て籠もります。二木豊後守は中塔城の堅固さには自信があったようで、「南と北は深い谷、東は岩山、西は深い山で人が通ることはままならない、決して陥ちることの無い要害である」というような、多少誇張したことを吹聴しています。

早くもその三日後、「何の、小賢しい真似を」とばかり、武田軍も猛攻を加えますが、八合目まで攻め上ったところで必死の城兵たちの反撃で思わぬ損害を出し、武田軍は遠巻きに中塔城を包囲します。あるとき、信玄は「もう気が済んだだろう。もともと一門(小笠原氏は甲斐源氏)なんだし、降伏すれば城兵の命も助けるし、アンタも旗本に取り立てるから」と降伏勧告をしますが、長時はこれを「小笠原と武田はもともと同族とはいえ宮中においては小笠原の方が家格も上である。格下の武田のもとに降伏とあっては、ご先祖たちに申し訳が立たぬ」とこれを一蹴、もはや依怙地としかいえない態度で籠城を決め込みます。その間、寄せ手と城方の悪口合戦や二木氏被官の一部が武田の調略に乗って逆心を企てて発覚、一族十六人が成敗されるなどの事件がありました。しかし苦節半年(三年とも)の籠城を経た大晦日の夜、長時らは中塔城を忍び出て、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼ります。なんとも侘しい歳の瀬ではありませんか。長時は越後で二年を過ごした後、同族の三好長慶を頼って上方へと向かいます。その時長時は二木豊後守に「その方は信濃に罷り帰り、晴信に仕え、我が本意の草の種となってくれ」と命じます。忠臣豊後守は「ぜひにも上方へお供を」と願い出るも、長時は「その方はこらえ性のある人物である。だからこそ晴信に仕え、我が本意の日を待って欲しい」と豊後守に懇望します。よほど二木氏を深く信頼していたのでしょう。なかなかドラマチックなお話ではあります。結局この中塔城の合戦を最後に、長時は故郷に帰ることなく異郷の地に没してしまいますが、ここまでの抵抗は見事ではないですか。もはや守護もクソもなく、神出鬼没で山々を渡り歩き、最後はヤケクソに高い山に立て籠もる、まさに「山岳ゲリラ守護」とでも称すべき人物です。この人物の面白いところは、そうしたヤケクソな抵抗の合間に京都の建仁寺に戦勝祈願し「勝ったら筑摩郡蟻崎の地をを寄進する」などと書き記しているところで、いったいこの山岳戦の合間に、どんな気持ちでこんな願文を書いて、どうやって京都に届けたのか、まったく不思議です。

これらの話は、二木重高の子、豊後守重吉が小笠原秀政の求めに応じて記した家記「二木寿斎記」(二木家記)などに記されているものですが、武田側の記録には野々宮合戦のことも中塔城合戦のことも記載がなく、史実であったかどうかは疑問視されるところではあります。ただ、「二木斎寿記」によれば、「日ごろより妻子を籠め置き云々」とか「中塔の小屋と申す一段堅固の地を城郭に拵え云々いう記述もあり、いかにも有事の逃げ込み城らしさが感じられるところではあります。「寿斎記」は『續群書類従 合戦部 第二十一巻下』に収録されており、この手の戦記文学としては比較的読みやすく内容も面白いので、ご興味のある方はぜひ図書館などで探してみてください。

中塔城平面図(左)鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

その中塔城、集落からの比高は450mもあり、主郭の標高は1200mあまり、冬季の籠城は厳寒の中での厳しいものであったでしょう。遺構はというとなんだかよく分からないお城で、とりあえず一番高いTを主郭、というように記したものの、実際にはどう見てもただの山です。一応東側の尾根筋に堀切や段郭群があり、このあたりは多少小笠原城郭の面影を感じさせますが、主郭の背後はベロ〜ンと広い窪地状の地形が広がり、その先の尾根にも別段堀切があるわけでもなく、実に城っぽくない雰囲気の山です。この窪地あたりは、二木重高が「日ごろより妻子を籠め置」いたあたりかもしれません。全体的にお城というよりはただ単に闇雲に高くて険しい山、という印象しかありません。しかしそこが二木重高の謂うところの「中塔と申す小屋を城郭に拵え云々」という表現と妙にマッチしているのも事実です。

ちょっと不可思議な遺構(?)としては、山の先端から主郭あたりまで、「これでもか」というくらいの堀底状の通路が続いていることで、これが城郭遺構なのかどうか疑問でもありますが、同様のものは埴原城桐原城などの小笠原系城郭の尾根にも見られることから、何らかの意図があってのモノではないかと思います。さらに不思議なのは山麓附近でまるで連続竪堀のように通路が何本も枝分かれしています。連続竪堀も桐原城には実際にあることだし、これもそうなのかな??現時点では遺構であるとも、そうでないとも言えない、不可思議な構造物ではあります。

なお、城郭遺構を見たい方にはオススメしかねる山ではありますが、どうしても見たい方は、「梓川ふるさと公園」の入口からずっと奥の方の林道に入り、「南黒沢」を渡って山の先端をぐるっと迂回したあたり、林道終点から100mくらいバックしたあたりの山から取り付くと、堀底状の通路が見えてくるはずです。入口がヤブと倒木に覆われている上、満足な目印も無いのでわかりにくいですが、とりあえず堀底状の通路を探してください。山頂までは険しい山道を一時間ほどかかります。地元の方の話に寄ればクマも出るようなので、その対策もお忘れなく。

[2005.11.25]

「ふるさと公園」より見上げる中塔城。見るからに手ごわそうな山です。登り口は中塔集落から入るより、この公園の奥(西側)に向かう林道に入り、南黒沢を渡って山の先端から取り付くのが正解です。 いきなり山麓から、長〜い堀底状の通路が続きます。これは遺構なんだろうか?それよりも、この険しさ、それにクマが出てきそうな緊張感は精神的にもかなりしんどい。
山麓附近での幾筋にも分かれる通路。山腹がウネウネしています。ってゆーか連続竪堀!? やっと鉄塔まで辿り着きました。。。。すでにヘロヘロです。ここからはあともう一息です。
いくらか城郭らしくなってきた、と思ったら、堀切と遭遇。ここは連続堀切に見えますが、そのうちのひとつは実は堀底通路の出入り口です。やっと城郭らしくなってきてちょっと嬉しいですが、この山に堀切はあっても無くても大して変わらんと思うぞ。。。 二俣に分かれる堀底道。長い堀底道の大半が二本並行して作られているあたりも謎です。「上り用」「下り用」とか?そんなわけないか。
とにかく山の中は雑木が多くて写真もままならないのですが、延々と続く段々の曲輪群が「いかにも小笠原」という感じはします。 おお、ここぞ長時のいたであろう主郭!といっても、ご覧の通り、不気味な雑木だらけです。曲輪は狭い上、満足に削平もされていません。一人で登ると実に心細いです。。。
主郭背後のU曲輪には小さな祠がありました。こちらも曲輪とは言うものの基本的に自然地形で、まったくお城らしさはありません。 U曲輪は妙な窪地地形になっていて、尾根がそのまま土塁のようになっています。ベローンとした自然地形ですが、「妻子を籠め置き」というのはココなのかもしれません。
尾根続きも多少の腰曲輪や「もしかして竪堀」なものもありますが、明瞭な堀切もなくダラダラ続いて、やがてまた登りとなります。城域の境ははっきりしません。 北黒沢・南黒沢が合流する台地先端の「とんがり屋敷」から中塔城を望む。とんがり屋敷には遺構らしきものは見当たりませんでした。リンゴ畑のおばあちゃんに取れたてリンゴを頂きました。ありがとう!山の後のリンゴの味は格別でした!

 

 

交通アクセス

長野自動車道「松本」ICより車20分。

松本電鉄線「波田」駅から徒歩50分で登り口。バス等は不明。  

周辺地情報

西牧城がそこそこ纏まった遺構が見られます。周囲の山城では岩原城が秀逸。なおこの近辺の山は止山(入山禁止)区域が多いので山に入る前に地元の人に確認を。クマ対策もね。

関連サイト

 

 

参考文献

「寿斎記」(『續群書類従』/續群書類従完成会 所収)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「中部の名族興亡史」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信濃の山城」(小穴芳実編/郷土出版社)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

参考サイト

城と古戦場  家紋World

 

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