塩尻峠の合戦で武田信玄に敗れ、本拠の林城も棄てざるを得なくなった小笠原長時、この「落魄の守護」はそれでも執拗に、安曇・筑摩の山地を渡り歩きながら領土回復のチャンスを待ちます。この頃、武田信玄の本当の狙いはすでに北信の大勢力・村上義清であり、その先には「川中島」も見えていた時期ではありましたが、そのためには安曇・筑摩を確保する必要があります。で、小笠原長時らはこの附近の山中に出没しては小競り合いを繰り返していたようで、さらにその居場所も点々と変わるため、信玄としても捕捉しきれなかったような節があります。実力的にはもはや小笠原残党軍など敵ではないのでしょうが、神出鬼没の山岳戦を仕掛けられるようでは兵站線の確保も覚束きません。信玄にしてみれば「ええい、五月蝿いわ!」という心境だったでしょう。
長時も村上義清と組んで、果敢に領土回復運動を展開しますが、いかんせん一族や仁科氏をはじめとする国人領主が武田の調略で次々に離反、頑強に抵抗する平瀬城なども落とされて、もはや先細りの予感。乾坤一擲「野々宮の合戦」で武田軍の先鋒隊(これは小笠原氏の旧臣が中心だったらしい)を打ち破るも、長時にはその先が開けてくるようには思えなかったのでしょう。「今日の合戦に勝つには勝ったが、吾等の劣勢はもはや明らか、これまでである。潔く自刃する」と覚悟を定めた長時を諌めたのは中塔城主の二木豊後守重高ら。「大将が御腹を召されては、誰が逆意の者どもを斬り従えるのでござる、まして忠節を守って死んだ犬甘(犬甘城主)、平瀬(平瀬城主)らにいかにして報いることができましょうか。」「我が中東(塔)の小屋には五千の兵を三年食わせる分の兵糧も矢玉を蓄えてござる。」「ここに登って、浮世の隙をお伺いあれ」と諭し、長時は二木氏らとともにこの中塔城に立て籠もります。二木豊後守は中塔城の堅固さには自信があったようで、「南と北は深い谷、東は岩山、西は深い山で人が通ることはままならない、決して陥ちることの無い要害である」というような、多少誇張したことを吹聴しています。
早くもその三日後、「何の、小賢しい真似を」とばかり、武田軍も猛攻を加えますが、八合目まで攻め上ったところで必死の城兵たちの反撃で思わぬ損害を出し、武田軍は遠巻きに中塔城を包囲します。あるとき、信玄は「もう気が済んだだろう。もともと一門(小笠原氏は甲斐源氏)なんだし、降伏すれば城兵の命も助けるし、アンタも旗本に取り立てるから」と降伏勧告をしますが、長時はこれを「小笠原と武田はもともと同族とはいえ宮中においては小笠原の方が家格も上である。格下の武田のもとに降伏とあっては、ご先祖たちに申し訳が立たぬ」とこれを一蹴、もはや依怙地としかいえない態度で籠城を決め込みます。その間、寄せ手と城方の悪口合戦や二木氏被官の一部が武田の調略に乗って逆心を企てて発覚、一族十六人が成敗されるなどの事件がありました。しかし苦節半年(三年とも)の籠城を経た大晦日の夜、長時らは中塔城を忍び出て、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼ります。なんとも侘しい歳の瀬ではありませんか。長時は越後で二年を過ごした後、同族の三好長慶を頼って上方へと向かいます。その時長時は二木豊後守に「その方は信濃に罷り帰り、晴信に仕え、我が本意の草の種となってくれ」と命じます。忠臣豊後守は「ぜひにも上方へお供を」と願い出るも、長時は「その方はこらえ性のある人物である。だからこそ晴信に仕え、我が本意の日を待って欲しい」と豊後守に懇望します。よほど二木氏を深く信頼していたのでしょう。なかなかドラマチックなお話ではあります。結局この中塔城の合戦を最後に、長時は故郷に帰ることなく異郷の地に没してしまいますが、ここまでの抵抗は見事ではないですか。もはや守護もクソもなく、神出鬼没で山々を渡り歩き、最後はヤケクソに高い山に立て籠もる、まさに「山岳ゲリラ守護」とでも称すべき人物です。この人物の面白いところは、そうしたヤケクソな抵抗の合間に京都の建仁寺に戦勝祈願し「勝ったら筑摩郡蟻崎の地をを寄進する」などと書き記しているところで、いったいこの山岳戦の合間に、どんな気持ちでこんな願文を書いて、どうやって京都に届けたのか、まったく不思議です。
これらの話は、二木重高の子、豊後守重吉が小笠原秀政の求めに応じて記した家記「二木寿斎記」(二木家記)などに記されているものですが、武田側の記録には野々宮合戦のことも中塔城合戦のことも記載がなく、史実であったかどうかは疑問視されるところではあります。ただ、「二木斎寿記」によれば、「日ごろより妻子を籠め置き云々」とか「中塔の小屋と申す一段堅固の地を城郭に拵え云々いう記述もあり、いかにも有事の逃げ込み城らしさが感じられるところではあります。「寿斎記」は『續群書類従 合戦部 第二十一巻下』に収録されており、この手の戦記文学としては比較的読みやすく内容も面白いので、ご興味のある方はぜひ図書館などで探してみてください。
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中塔城平面図(左)鳥瞰図(右)
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その中塔城、集落からの比高は450mもあり、主郭の標高は1200mあまり、冬季の籠城は厳寒の中での厳しいものであったでしょう。遺構はというとなんだかよく分からないお城で、とりあえず一番高いTを主郭、というように記したものの、実際にはどう見てもただの山です。一応東側の尾根筋に堀切や段郭群があり、このあたりは多少小笠原城郭の面影を感じさせますが、主郭の背後はベロ〜ンと広い窪地状の地形が広がり、その先の尾根にも別段堀切があるわけでもなく、実に城っぽくない雰囲気の山です。この窪地あたりは、二木重高が「日ごろより妻子を籠め置」いたあたりかもしれません。全体的にお城というよりはただ単に闇雲に高くて険しい山、という印象しかありません。しかしそこが二木重高の謂うところの「中塔と申す小屋を城郭に拵え云々」という表現と妙にマッチしているのも事実です。
ちょっと不可思議な遺構(?)としては、山の先端から主郭あたりまで、「これでもか」というくらいの堀底状の通路が続いていることで、これが城郭遺構なのかどうか疑問でもありますが、同様のものは埴原城、桐原城などの小笠原系城郭の尾根にも見られることから、何らかの意図があってのモノではないかと思います。さらに不思議なのは山麓附近でまるで連続竪堀のように通路が何本も枝分かれしています。連続竪堀も桐原城には実際にあることだし、これもそうなのかな??現時点では遺構であるとも、そうでないとも言えない、不可思議な構造物ではあります。
なお、城郭遺構を見たい方にはオススメしかねる山ではありますが、どうしても見たい方は、「梓川ふるさと公園」の入口からずっと奥の方の林道に入り、「南黒沢」を渡って山の先端をぐるっと迂回したあたり、林道終点から100mくらいバックしたあたりの山から取り付くと、堀底状の通路が見えてくるはずです。入口がヤブと倒木に覆われている上、満足な目印も無いのでわかりにくいですが、とりあえず堀底状の通路を探してください。山頂までは険しい山道を一時間ほどかかります。地元の方の話に寄ればクマも出るようなので、その対策もお忘れなく。
[2005.11.25] |