小土豪・堀金氏の雄大な山城

岩原城

(附・堀金氏館)

いわはらじょう Iwahara-Jo

別名:

長野県安曇野市堀金烏川

城の種別

山城

築城時期

不明(永正年間頃?)

築城者

堀金氏

主要城主

堀金氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁

主郭背後の巨大堀切<<2005年09月17日>>

歴史

築城時期は明らかではないが、大町仁科館の仁科氏の一族である堀金氏が大永年間(1521-27)頃にこの地に進出して築いたと考えられる。堀金氏は甲斐武田氏の家臣である駒井高白斎政武の日記「高白斎記」天文二十(1551)年の項に「二十二日ほりか子(堀金)出仕」と見え、平瀬城小岩嶽城攻撃のために深志城に着陣した武田晴信のもとに出仕している。その後堀金氏は武田氏の配下として天文二十一(1552)年の小岩嶽城攻め、弘治三(1557)年の「第三次川中島合戦」での平倉城攻めなどに従軍し、堀金氏の一族が千国六ヶ村を宛行われて千国丹波守を名乗っている。永禄四(1561)年九月十日の第四次川中島合戦では、堀金安芸守政氏が戦死している。また堀金平太夫盛広は永禄十(1567)年八月七日付の生嶋足嶋神社への神前起請文に仁科氏親族の筆頭として名が見える。

その後天正九(1581)年頃に仁科一族の渋田見氏との婚姻を武田氏に届け出なかったとして没落し、堀金盛広は越中砺波郡の一向宗勝満寺を頼り出家、天正十六(1588)年には越中砺波郡内に堀金城山歓帰寺を建立、慶長十一(1606)年十一月二十四日に没したという

いくつか見た安曇野の山城の中でも、岩原城はまた格別のものがありました。一言でいうと「ダイナミック!」これぞ山城の醍醐味!というところでしょうか。これほどのお城が正史に現れないのが不思議なほどです。

岩原城の将主は仁科一族の堀金氏、おそらく全国的にはマイナーな小土豪でしょう。かくいうソレガシも、ここを訪れてみなかったらその名は知らないまま過ごしていたことでしょう。この堀金氏、駒井高白斎の日記「高白斎記」天文二十(1551)年の項に「二十二日ほりか子(堀金)出仕」と見え、この頃多くの仁科氏一族や小笠原家臣団などとおなじく武田氏の配下に入ったのでしょう。この後、堀金氏は武田軍団の先方衆として酷使されたようで、天文二十一(1552)年には同族の古厩氏の小岩嶽城攻め、弘治三(1557)年の「第三次川中島合戦」では北安曇の平倉城攻めなどに従軍しています。降伏した小土豪の常とはいえ、昨日まで同輩であった者の属城を攻めねばならぬあたり、なかなか切ないものを感じます。さらに切ないことに、堀金政氏は永禄四(1561)年の「第四次川中島合戦」に従軍、戦死しています。おそらく安曇野の小土豪にとっては川中島を誰が領有するかなど、どうでもいい話であったに違いないと思いますが、そこは先方衆として、まさに「消耗品」のように扱われて死んでいったのでしょう。武田典厩信繁や諸角豊後守などの高名な人物の影でひっそりと死んでいった堀金氏には、心を込めて「境目哀歌」を贈りたい気持ちです(いらないって・・・?)。その後の堀金氏、仁科一族の渋田見氏との縁組を届け出なかったカドで没落、どういう縁故があったのか越中に移り、一向宗の寺院を建立してそこの僧になったとか。もう武士稼業はコリゴリだ、と思ったのかどうか・・・。

岩原城平面図(左)、鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。

その堀金氏の有事の詰城とされるのがこの岩原城ですが、一介の土豪にしてこの規模、この雄大さ。これってほんとに堀金氏の属城というだけの存在でいいんですかね。ちょっと考えさせられるところではあります。この岩原城のある「古城山」(標高958m、比高約250m)は遠目にも「いかにも城山」という感じの山で、はるか対岸の平瀬城からも遠望できます。主郭周辺は特に際立って高く突き上げるような地形、尾根の両側は崖に近い急斜面という、恵まれた地形を生かした、まさに山城を築くために存在するような山です。登り口が見つからず、とりあえず山裾の段丘上にある堀金霊園附近から支尾根を直登しました。この段丘上にも大同寺、安楽寺などの中世寺院跡などがあり、山城と一体化した館城としての姿も想定されます。ここからの尾根直登はなかなか険しい道のりでしたが、主尾根に出ると道があり、山菜採りの地元のおばあちゃんなどにも出会いました。この尾根上の「立岩」あたりから小規模ながらも堀切がポツポツ現れはじめます。急峻な斜面の主郭附近の手前には素晴らしい二重堀切(堀3・4)があります。この堀4の雄大さはどうでしょう!ここから急峻な斜面上には小笠原系の山城を思わせる小規模な段郭が続きます。主郭へは南側の腰曲輪から回り込むように道があり、虎口もはっきりわかります。そしてこの主郭背後の堀(堀6)の大きさといったら!これ15mくらいはあるかなあ?しかも、三重堀切です。この奥にも自然のダラダラ尾根を経ていくつか堀切(堀9・10・11)があります。さらに角蔵山方面にも何かあるかもしれませんが、とりあえずここまでが岩原城の城域と見ました。

さて、堀金氏の館はというと、約3.5kmほど東の集落の中にあります。周囲はかつては低湿地だったのでしょうが、現在ではほとんど宅地や保育園、畑などになっています。ここには道路に面して土塁があり、「堀金氏居館」の石碑が建っています。中は個人の宅地になっており、一言お断りした上で玄関前のあたりを見せてもらいましたが、土塁の内側に堀があるのがちょっと不思議です。もともと堀の内側にもさらに土塁があったものか、あるいは二重の堀でもあったものか、そこら辺は分かりませんでした。戦国期のお城としては、これだけ館と要害の距離が離れているのは珍しいようにも思います。あるいはこの居館はある時期に放棄されて、岩原城直下の寺院群のある「かまえ」あたりに新たに根古屋を築いていたかもしれません。そういう意味では戦国期の遺構というよりも、もっと以前の開発領主としての名残を残す城館跡である、とも思えます。

山城と館、関連寺院の「三点セット」がしっかり残る堀金氏関連の城館遺跡、実に貴重です。満足満足。

[2005.12.03]

堀金氏館

主郭附近の突起が印象的な岩原城の遠景。あいにく背後の北アルプスの山塊はガスっていて見えません。 山麓の安楽寺大門跡から見上げる岩原城。登り口がわからず、とりあえず背後の段丘上の堀金墓地附近から直登。
直登20分ほどで主尾根へ。ここには「立岩山権現岩」があります。このあたりは自然地形ではありますが城域の一部(X)と見ていいでしょう。 ここから平坦な尾根が暫く続きます。堀1は掘り残しの土橋の両端が竪堀になっています。
堀2も土橋と竪堀。このあたりまでの堀は規模は小さいです。削平もされていません。 堀3・4の連続堀切あたりから、急にお城らしくなります。堀3の手前の小さな段郭などは不完全ながらも馬出しのようです。
大きくて急峻な堀切4、圧巻です。竪堀はU字型の曲線を描いています。ここから主郭までは一気に急坂を登ります。 堀4を上から。ここは自然の急傾斜地をうまく使って高低差を作り出しています。投石用なのかどうか、石もいくつか転がっています。

主郭までの斜面には何段にも段郭が。このあたりは小笠原様式とでも言いたくなる縄張です。

主郭附近の急峻な斜面を見上げる。石塁があったのかどうか、石がゴロゴロしています。

U曲輪への虎口。枡形、といってもいいでしょう。 主郭には朽ちかけた「岩原城址」の標柱が立っていました。しかし、ヤブが酷いなあ・・・。
主郭の背面にはお約束の土塁が。土塁そのものは大して高くありませんが、ここから見る背後の堀切は驚異的。 うーむ、写真ではその雄大さが伝わらないのが残念な堀6。半端ではない大きさです。法面を直接降りるのは危険ですが、U曲輪側から道があります。
主郭の北側斜面に残る石塁?この他にも結構石が転がっており、本来は石積みがあった可能性が高そうです。 主郭北側斜面には3条の畝状の竪堀群があります。山側からの侵入に備えたものでしょうか。
堀6から堀8まで、三連続の堀切。このお城の遺構は鋭さがあり、実に戦闘的です。 主郭裏手のW曲輪、といっても削平はされていません。この背後にも堀切があり、一応城域の一部と看做すことができます。
まだまだ続く遺構。写真は堀10。ちょっと倒木が多いですが、こちらも鋭さ、規模ともなかなかのものです。 山麓台地には大同寺跡、安楽寺跡や「岩原巾上遺跡(詳細不詳)」などの遺構群があります。
安楽寺跡にはいつの時代のものか分かりませんが石垣なども。このあたりは「かまえ」という山麓の根古屋区域の一部でもあります。 ソレガシが直登をはじめた大同寺古薬師堂跡。こうした中世寺院遺跡と山城、そして居館と、各種の遺跡が残っている実に貴重な場所でもあります。

堀金氏館

 

 

交通アクセス

長野自動車道「豊科」ICより車20分。

JR大糸線「豊科」駅より徒歩80分で登り口。公共交通は不明。

周辺地情報

城址公園になっている小岩嶽城が近く。ハイキングコースが整備された西山城も良い。おすすめはしませんが中塔城なども興味があれば。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信濃中世の館跡」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

「信州の山城」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

参考サイト

近江の城郭  

 

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