迷惑な隣人出現に大慌て

西牧城

にしまきじょう Nishimaki-Jo

別名:北条城

長野県松本市梓川梓南北条・大久保

 

城の種別

山城

築城時期

不明(鎌倉時代?)

築城者

西牧(滋野)氏

主要城主

西牧氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土塁、虎口

主郭北側の大堀切<<2005年09月18日>>

歴史

築城時期は明らかでないが、滋野氏の一族の西牧氏が築いたという。西牧氏の名は建仁二(1203)年二月十日の梓川村(現松本市)真光寺阿弥陀堂の「阿弥陀如来像の像内墨書銘」に「滋野兼忠」とあり、これが西牧氏のことであり記録上の初見であるという。

西牧氏は中世以降、諏訪上社の祭祀に奉公する神氏の一党で、南北朝期には南朝方に属して北朝方の守護・小笠原氏と争った。応永七(1400)年の「大塔合戦」では仁科氏の率いる「大文字一揆」の中に西牧氏の名が見え、守護の小笠原長秀を信濃から追放している。その後、小笠原政康が信濃守護に補任されると、住吉庄、春近領の領有をめぐって「大文字一揆」に属する国人衆と小笠原氏が争い、西牧宮内少輔時兼らが連署して室町幕府の信濃国代官・飯尾美濃入道に小笠原氏の不当を訴えている。

その後西牧氏は小笠原氏に従っていたが、天文十七(1548)年七月十八日の「塩尻峠の合戦」で三村長親、西牧信道らが武田晴信に内応して背後から小笠原長時を襲い、これがもとで長時は敗北したという。

天正十(1582)年三月に武田氏が滅亡、また六月に織田信長が死去すると、飛騨に逃れていた小笠原貞慶(長時の子)が領土回復に乗り出し、松本城に入城した。その後、西牧氏は貞慶によって討たれ、天正十一(1583)年には西牧氏の闕所を二木豊後守に与えている。西牧城はこの前後に廃城となったと思われる。

ちょっと前に話題になった「迷惑な隣人」の話。夜中に大音響で音楽を鳴らしたり、フトンをバタバタ叩きながら「引越せ!」などと喚いていた人をふと思い出してしまいます。その他にもいわゆる「ゴミ屋敷」問題や、夜中に隣の部屋から麻雀牌の音がヂャラヂャラと・・・などという問題は今でもどこかで起こっているんでしょう。いや、人ごとじゃないです。

戦国時代、大キライなヤツ、それも自分がさんざん苛めたヤツが突如隣のお城に引っ越してきた、ど、どうする・・・!?。西牧城を見て、なんとなくそんな危機感を感じてしまいました。城主の西牧氏は東信濃の古代豪族の流れを汲むとされる滋野氏の一族です。滋野氏といえば佐久や小県などの東信地方の名族として、海野・禰津・真田などの支族を輩出していますが、意外なことにこの安曇野の西側にも一族の勢力が及んでいたんですね。「西牧」の地名でも推測されるように、ここには「牧」があったようで、この西牧氏はその牧の経営を委ねられた一族であったようです。もともと滋野氏も官牧の経営に従事した一族であるということなので、その手腕を買われての抜擢なのかもしれません。

その名族の血を引くプライドもあってか、どうもこの西牧氏、守護の小笠原氏とは最初からあまりうまくいっていなかったようなフシがあります。その際たるものは応永七(1400)年の「大塔合戦」、これは斯波氏に替って信濃守護に復帰した小笠原氏を、信濃国人衆連合が寄ってたかって叩きまくって追い出してしまった事件なのですが、西牧氏も仁科氏らの「大文字一揆」とともに参加しています。

やがて小笠原政康が守護に補任され、ふたたび小笠原氏が復帰するのですが、この頃の大文字一揆らの連署による幕府への訴状も奮っています。ソレガシは古文書読みがあまり得意でないので細かい部分はよくわかりませんが、要するに「住吉庄、春近領は我らの所領なのに、小笠原ごときに安堵するとは驚き入るばかりである」「あんなのは守護なんてモンじゃねえ」「ヤツがいる限りは国中の乱れは終わらないぞ」というような感じのもの。ここに「西牧宮内少輔時兼」も署名しています。いかにも文句タラタラな文面で、根強い小笠原不信が伺えるところです。

それでもその後、嫌々ながらだったかもしれませんが麾下に従うようになります。が、どうも反小笠原の血は脈々と受け継がれていたようで、かの「塩尻峠の合戦」では、西牧信道が三村氏らとともに小笠原連合軍を裏切って、小笠原軍大敗の原因のひとつを作っています。

それだけなら、ちょっと大人げ無いけどイヤなヤツを叩き出せてまあオメデトウ、というくらいの話なのですが、林城を追い出された長時は流浪の挙句、なんと直線で2kmしか離れていない、ほとんど「隣の山」といってもいい中塔城に立て籠もってしまいます。自分がさんざん苛めた相手が隣に引っ越してきて、しかもそこそこ気勢を上げている、しかも半年、一説には足掛け三年にも渡って・・・。これは西牧氏にとっては大いに脅威だったでしょう。実はそんな大慌てぶりが遺構面にも現れているように見えるのです。

西牧城は北アルプス東山麓に近い金松寺山の支尾根先端、標高946m・比高200mの「城山」に築かれた山城です。この西牧城、見た目の割に急峻な山で、比高200mちょっととはいえ、体力的にはかなりしんどいです。大手口は本来、金松寺背後の「亀山」(ここに出城がる)裏手の緩やかな尾根であるようですが、この一帯はキノコ山になっていて、全面的に立ち入り禁止となっています。仕方なく探したのが若宮八幡宮からの東支尾根のルートですが、こちらも道というにはあまりにも心細いもので、ほとんど直登に近いルートとなります。下りの際には道を見失いやすいので注意が必要です。

西牧城平面図(左)鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

城域は逆L字の尾根一帯に広がっていて、主郭裏の堀切も立派だし、切岸も高く急峻だし、主郭そのものも低いながらも土塁がほぼ全周しており、割ときっちり作られている印象です。しかしこの主要部の端正で整然とした縄張りと対照的なのが東から北へかけての尾根筋で、ここには大小の曲輪が散らばり、土塁や竪堀などもありますが、削平は半端だし、防御ラインが全然考えられていないというか、とっ散らかっているというか、とにかくまとまりに欠ける印象を持ちました。このメチャクチャな尾根の先には・・・そう、中塔城が。これこそ、迷惑な隣人が中塔城に引っ越してきてしまい、慌てて工事を施した部分なのではないでしょうか。急いで拡張したのはいいけれど、こんなのができちゃいました、とでもいうような中途半端ぶりが面白いです。

さて西牧氏、結局小笠原氏の追い出しには成功したものの、そのしっぺ返しとでもいうのか、武田氏滅亡の後、松本城に小笠原貞慶が復帰すると、真っ先に復讐の的にされ、滅ぼされてしまいます。西牧氏の闕所や森林資源は、小笠原氏の再興に最も功のあった二木氏に与えられてしまいます。西牧氏滅亡の模様はよくわかりませんが、「寿斎記」等でも西牧城の攻防に関する記述は無く、「金松寺」という地名が何度も登場するところを見ると、西牧城は恐らくその頃には機能停止していたと思われます。

なお、この山にはあちこちに「クマ剥ぎ」の痕跡がありましたので、念のためクマの出没には気をつけたほうがいいでしょう。山麓近くの「田屋」には居館の一部が残るようですが、こちらは気づきませんでした。。。。

[2005.11.28]

いかにも城山、といった感じの西牧城。大手口は金松寺裏手の尾根筋ですが、こちらは入山禁止区域が多く断念。 西牧氏の守護神として建立されたという若宮八幡宮本殿。この右手から山に取り付きましたが、道などと呼べるようなものでは・・・。
急峻な尾根道と格闘約20分、最初のはっきりした遺構が。堀1は大きな竪堀で、尾根を狭めています。 北側の段郭群。小笠原氏系の城郭と似ていますが、造作は実に雑で曲輪の向きもメチャクチャです。いかにも急造、といった感じ。
尾根上には土塁もありますが、これもなんだか「とりあえず作ってしまえ」的な中途半端なもので、全然防衛線が成り立っていません。 畝状阻塞?なものまで。もうとにかく統一性も計画性も無く、何でもアリアリで作ってしまいました、という感じです。
なにやらの石碑の建つW曲輪、ここも削平自体は実に半端です。このあたりより北側は「隣人」に備えた拡張区域と想像します。 さて本格的な城域へ。主郭北側の堀4は主郭側が10mを越えるご立派なもの。主郭の周りの切岸も高く急峻で、「こっちはちゃんと作ったんだなあ」と妙に納得。
主郭のT曲輪です。クマさんが出てきそうな鬱蒼としたヤブです。しかし削平状態はよく、周囲に土塁も見られます。 主郭周囲の土塁。高いところで1mほどですが、結構ちゃんとしています。南側には坂虎口があります。
南西尾根続きの堀5。ここも10m近くの深さのある立派な堀切です。このあたりの縄張は小笠原系城郭とは大分印象が違います。 堀6は中途半端な竪堀になっており、堀5と連続堀切になっています。しかしこれも工事途中で放棄されたような感じに見えます。
U曲輪にも低い土塁があります。これまた中途半端な馬出し、という感じの曲輪です。 U、Vの間を隔てる堀7。深さは1.5mほどですが、竪堀はかなり長く続いています。
V曲輪にはなんだかよく分からない穴ボコがいくつかあります。古墳の石室、もしくは炭焼き窯でしょうか。 大手筋にあたる南の尾根に続く土橋と堀9。このあたりの堀は実に小規模。
このお城にも意味不明な竪堀のような、通路のような遺構があちこちにあります。この先はキノコ山になっているのでこの辺で引き返しました。 これは「クマハギ」です。スタコラサッサと逃げましょう。

 

 

交通アクセス

長野自動車道「松本」ICより車20分。

松本電鉄線「波田」駅から徒歩30分で登り口。バス等は不明。  

周辺地情報

おすすめはしませんが中塔城が近い。周囲の山城では岩原城が秀逸。なおこの近辺の山は止山(入山禁止)区域が多いので山に入る前に地元の人に確認を。クマ対策もね。

関連サイト

 

 

参考文献

「寿斎記」(『續群書類従』/續群書類従完成会 所収)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信濃中世の館跡」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

「信州の山城」(信濃史学会編/信毎書籍出版センター)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

参考サイト

近江の城郭 

 

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