ちょっと前に話題になった「迷惑な隣人」の話。夜中に大音響で音楽を鳴らしたり、フトンをバタバタ叩きながら「引越せ!」などと喚いていた人をふと思い出してしまいます。その他にもいわゆる「ゴミ屋敷」問題や、夜中に隣の部屋から麻雀牌の音がヂャラヂャラと・・・などという問題は今でもどこかで起こっているんでしょう。いや、人ごとじゃないです。
戦国時代、大キライなヤツ、それも自分がさんざん苛めたヤツが突如隣のお城に引っ越してきた、ど、どうする・・・!?。西牧城を見て、なんとなくそんな危機感を感じてしまいました。城主の西牧氏は東信濃の古代豪族の流れを汲むとされる滋野氏の一族です。滋野氏といえば佐久や小県などの東信地方の名族として、海野・禰津・真田などの支族を輩出していますが、意外なことにこの安曇野の西側にも一族の勢力が及んでいたんですね。「西牧」の地名でも推測されるように、ここには「牧」があったようで、この西牧氏はその牧の経営を委ねられた一族であったようです。もともと滋野氏も官牧の経営に従事した一族であるということなので、その手腕を買われての抜擢なのかもしれません。
その名族の血を引くプライドもあってか、どうもこの西牧氏、守護の小笠原氏とは最初からあまりうまくいっていなかったようなフシがあります。その際たるものは応永七(1400)年の「大塔合戦」、これは斯波氏に替って信濃守護に復帰した小笠原氏を、信濃国人衆連合が寄ってたかって叩きまくって追い出してしまった事件なのですが、西牧氏も仁科氏らの「大文字一揆」とともに参加しています。
やがて小笠原政康が守護に補任され、ふたたび小笠原氏が復帰するのですが、この頃の大文字一揆らの連署による幕府への訴状も奮っています。ソレガシは古文書読みがあまり得意でないので細かい部分はよくわかりませんが、要するに「住吉庄、春近領は我らの所領なのに、小笠原ごときに安堵するとは驚き入るばかりである」「あんなのは守護なんてモンじゃねえ」「ヤツがいる限りは国中の乱れは終わらないぞ」というような感じのもの。ここに「西牧宮内少輔時兼」も署名しています。いかにも文句タラタラな文面で、根強い小笠原不信が伺えるところです。
それでもその後、嫌々ながらだったかもしれませんが麾下に従うようになります。が、どうも反小笠原の血は脈々と受け継がれていたようで、かの「塩尻峠の合戦」では、西牧信道が三村氏らとともに小笠原連合軍を裏切って、小笠原軍大敗の原因のひとつを作っています。
それだけなら、ちょっと大人げ無いけどイヤなヤツを叩き出せてまあオメデトウ、というくらいの話なのですが、林城を追い出された長時は流浪の挙句、なんと直線で2kmしか離れていない、ほとんど「隣の山」といってもいい中塔城に立て籠もってしまいます。自分がさんざん苛めた相手が隣に引っ越してきて、しかもそこそこ気勢を上げている、しかも半年、一説には足掛け三年にも渡って・・・。これは西牧氏にとっては大いに脅威だったでしょう。実はそんな大慌てぶりが遺構面にも現れているように見えるのです。
西牧城は北アルプス東山麓に近い金松寺山の支尾根先端、標高946m・比高200mの「城山」に築かれた山城です。この西牧城、見た目の割に急峻な山で、比高200mちょっととはいえ、体力的にはかなりしんどいです。大手口は本来、金松寺背後の「亀山」(ここに出城がる)裏手の緩やかな尾根であるようですが、この一帯はキノコ山になっていて、全面的に立ち入り禁止となっています。仕方なく探したのが若宮八幡宮からの東支尾根のルートですが、こちらも道というにはあまりにも心細いもので、ほとんど直登に近いルートとなります。下りの際には道を見失いやすいので注意が必要です。
城域は逆L字の尾根一帯に広がっていて、主郭裏の堀切も立派だし、切岸も高く急峻だし、主郭そのものも低いながらも土塁がほぼ全周しており、割ときっちり作られている印象です。しかしこの主要部の端正で整然とした縄張りと対照的なのが東から北へかけての尾根筋で、ここには大小の曲輪が散らばり、土塁や竪堀などもありますが、削平は半端だし、防御ラインが全然考えられていないというか、とっ散らかっているというか、とにかくまとまりに欠ける印象を持ちました。このメチャクチャな尾根の先には・・・そう、中塔城が。これこそ、迷惑な隣人が中塔城に引っ越してきてしまい、慌てて工事を施した部分なのではないでしょうか。急いで拡張したのはいいけれど、こんなのができちゃいました、とでもいうような中途半端ぶりが面白いです。
さて西牧氏、結局小笠原氏の追い出しには成功したものの、そのしっぺ返しとでもいうのか、武田氏滅亡の後、松本城に小笠原貞慶が復帰すると、真っ先に復讐の的にされ、滅ぼされてしまいます。西牧氏の闕所や森林資源は、小笠原氏の再興に最も功のあった二木氏に与えられてしまいます。西牧氏滅亡の模様はよくわかりませんが、「寿斎記」等でも西牧城の攻防に関する記述は無く、「金松寺」という地名が何度も登場するところを見ると、西牧城は恐らくその頃には機能停止していたと思われます。
なお、この山にはあちこちに「クマ剥ぎ」の痕跡がありましたので、念のためクマの出没には気をつけたほうがいいでしょう。山麓近くの「田屋」には居館の一部が残るようですが、こちらは気づきませんでした。。。。
[2005.11.28]