山深い秋川渓谷に聳える山城

檜原城

ひのはらじょう Hinohara-Jo

別名:

東京都西多摩郡檜原村本宿

(吉祥寺裏山)

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

平山氏(?)

主要城主

平山氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土橋

渓谷に屹立する檜原城<<2002年04月28日>>

歴史

応永二十(1413)年の文書に平山三河入道が甲斐の侵攻に備えるためこの地にいたらしいことが伺われる。平山氏は戦国期に台頭した北条氏に従属し、永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が崩れた後は、平山伊賀守が滝山城の北条氏照より防備を固めるよう命じられるが、翌永禄十二(1569)年、信玄本隊は碓氷峠を越えて武蔵中央部を南下、小山田信茂の別働隊は小仏峠を越えて滝山城に侵攻したため、檜原城は直接干戈を交えることはなかった。

天正十八(1590)年の小田原の役では平山伊賀守氏重が守備に当たっていたが、六月二十三日に八王子城が落城、氏重は八王子城代・横地監物ほか敗残兵をまとめて前田利家、上杉景勝らの軍勢と奮戦したが敵わず、七月十二日に落城、平山氏重、新左衛門親子は城下千足の「かくれ岩」で自害した。徳川家康の関東入封と同時に廃城となった。

秋川渓谷沿いの風光明媚な街道を西へ向かうと、目の前にいかにも目立つ異様な姿の高峰が現れます。この標高452mの高峰の手前で道は秋川渓谷方面と浅間峠、奥多摩周遊道路方面に分かれますが、かつてはこの浅間峠方面の道が武蔵と甲斐を結ぶ唯一の街道だったそうで、檜原城はその街道を監視する重要な城でした。永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が破れ、翌永禄十二(1569)年、信玄率いる甲斐軍は小田原城を攻撃しますが、その際にも想定ルートとしてこの檜原城は厳重に守りが固められました。このときは信玄は秋川沿いのルートを取らず、碓氷峠から武蔵中央部を南下するルートで侵攻したため、檜原城は肩透かしを食らう格好となりました。

小田原の役ではたった一日で落城した八王子城の敗残兵を収容し立て籠りますが、衆寡敵せず落城、城主の平山氏重は城下にて自刃しました。この平山氏はこの地の在地土豪であったようですが、北条氏に重く用いられていたらしく、無血開城した城も多い中、一門なみに闘い、そして死んでゆきました。「氏」の文字も、北条氏から与えられたものでしょう。一般に動員軍事力の割には激戦の少なかった、といわれる小田原の役ですが、当時は住む人もまばらで人里からはなれたこの山中では、どんな闘いが演じられていたのでしょうか。

さて、檜原村役場から見上げる檜原城はいかにも峻険で、とくに最高点である向かって左側のピークは「どうやって登るの?」といった感じなのですが、檜原城そのものはこの向かって左のピークよりやや降りた、向かって右の尾根上にあります。尾根の稜線に沿って、堀切や小規模な曲輪を連続させたシンプルな構造ですが、その中でも比較的広い曲輪が二つあり、その間を堀切と土橋で繋いでいます。この堀切の東側の斜面には大きな竪堀があって、屈曲を伴ないながら山麓まで伸びています。しかし、向かって左の最高点にも遺構はあるのではないでしょうか。とくに、甲斐方面への眺望(向かって右の曲輪では眺望ゼロ)の面や、狼煙台としての利用を考えれば、もっとも高く最も峻険な山頂部になにも手をつけないわけがないような気がします。というわけでそちらの峰にもチャレンジしましたが、非常に峻険な上、藪化しているため登頂は断念しました。この南峰は一部が砂利採りのために大きく山体をえぐられており、かなりの遺構が消滅した可能性もあります。

この秋川周辺は非常に景色も良く、都心からも道が空いていれば一時間半程度なので、ドライブコースとしてもオススメです。ただ峠を攻めに向かうバイクが非常に多いため、注意が必要です(それを取り締まるネズミ獲りにも注意)。

檜原村本宿の役場前から見上げる。ひぇ〜最近、山城行ってなかったからなあ。これは大変そう。ちなみに城郭遺構は左のピークではなく、右のやや降りた尾根上に展開しています。

晴天に汗ばみながら登る。この登山ルートは「十三仏巡拝道」にもなっていて、よく整備されています。あちこちで分岐していますが、だいたい山上の城域に繋がってるようでした(←結構アバウト)。

山上は比較的大きな平坦地が二つといくつかの腰曲輪があります。解説板の建つこの曲輪がいわゆる二郭にあたるところ。 二郭から北側尾根沿いには四段ほどの腰曲輪があります。この先には堀切があるようですが行きませんでした。
二つの曲輪を分断する堀切と細い土橋。尾根の鞍部を掘り切って、東側は長大な竪堀に繋がっていました。 虚空蔵菩薩像と小さな休憩小屋のある場所が主郭。非常に小さな曲輪です。周囲は急斜面に囲まれています。
主郭南側の急な斜面を降りて、最高峰との鞍部を歩くと、岩盤を断ち切った堀切が3条あります。この先の最高部は急峻な上藪化していて、歩くことができませんでした。 東側の急斜面に向かって降りてゆく長大な竪堀。自然の浸食で浅くなっていますが、あまり入り組んでいない単純な斜面を守るための施設でしょう。

高い山の割に木々に遮られ眺望はイマイチ。樹木の間からわずかに見える本宿集落と、遠く戸倉城方面を見る。

平時の居館跡と比定される吉祥寺。ご住職にお願いして車を置かせてもらいました。鬼瓦など、至るところに北条氏の「三ツ鱗」の紋が打ってあります。

吉祥寺の土蔵には大きな三ツ鱗が。北条氏ゆかりの地であることを実感。 秋川にかかる橋のたもとにある岩舟地蔵尊。最期の城主、平山氏重の妹で、藤橋城の平山光義に嫁いだものの、北条氏への帰属をめぐって対立し実家に送り返された鶴寿姫ゆかりの地蔵。
いやあやっぱり見た目の通り、キツイ山登りでした。やっぱり普段から体を山城に慣らしておかないとね(?)。まあ比高は200mほどですし、藪こぎはないので20分ちょっとですので、ちょっとしたハイキングにもなります。秋川の美しい景色に惹かれつつも次の目的地、戸倉城へ向かう「城馬鹿」の僕でした。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「八王子」ICから車30分。

JR五日市線「武蔵五日市」駅よりバス。

周辺地情報

付近には城主・平山氏にまつわる縁の地がいくつかあるようです。これより山奥には知る限り城はありません。東側の戸倉城八王子城をはじめとした八王子周辺の城跡見学をオススメします。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「多摩丘陵の古城址」(田中祥彦/有峰書店新社)、現地解説板

参考サイト

h-Hondaのホームページ多摩の古城址史跡訪問

 

埋もれた古城 表紙 上へ