関東管領山内上杉氏の重臣で武蔵守護代を務めた大石氏の初期の本城であったといわれますが、詳細はわかっていません。大石氏は後に滝山城を築き、この高月城は廃城になったともいわれていますが、ご存知の通り大石氏は天文十五(1546)年の河越夜戦での上杉氏大敗北によって北条に降らざるを得ず、氏康の三男、氏照を養子に迎えます。氏照の家臣団構成や支城の統制については詳しいことは分かっていませんが、なかなかの武勇と知略を兼ね備えていたといわれています(秀吉は氏政よりも氏照を恐れていたともいわれる)。その氏照の居城、滝山城からわずか1.5km、しかも多摩川と秋川の合流点に位置するこの城を氏照が放っておいたとも思えません。滝山城とは尾根続きでもあり、むしろ、秋川沿いの武田勢の侵攻を想定して、滝山城の出城として、あるいは事実上滝山城の一部として、使われていたのではないかと思います。
城は高月集落はずれの円通寺というお寺の裏山にあります。小高い丘の先端のごく小規模な城ですが、前述の通り多摩川と秋川の合流点に位置し、周囲は急峻な崖になっているため、それなりの要害、かつ戦略上の重要点であったことが窺い知れます。もともとの曲輪は秋川の流れに押されて、だいぶ侵食・崩落してしまっているのが実態であるようです。現在は城跡としての利用はなされておらず、三郭はラブホ「高月城」、主郭と二郭はすっかり耕されて畑になっています。一応堀切や土塁はありますが、全く整備されていないため藪や資材置き場になっていて見栄えは良くありません。かつては、このラブホのあたりに石塁があったといいますが、さすがに捜す勇気は無いですね。あまり明瞭な遺構も無く、見学に適している、見どころがある、とはお世辞にも言えないです。滝山城見学のついでに通りかかったら、丘の先端付近をチラリと一瞥してください。その程度で十分でしょう。