西多摩の雄・三田氏の居城

勝沼城

かつぬまじょう Kastunuma-Jo

別名:師岡城

東京都青梅市東青梅

(光明寺・妙光院裏山)

城の種別

平山城

築城時期

鎌倉時代後期?

築城者

三田氏

主要城主

三田氏、師岡氏

遺構

曲輪、空堀、土塁、土橋

主郭周辺の堀<<2002年04月28日>>

歴史

正確な築城時期は不明だが、鎌倉時代の末期にこの「杣の保」(青梅市周辺)を支配した三田氏の居城であった。三田氏は平将門の後裔を名乗っているが定かではない。

室町期の三田氏は関東管領・山内上杉氏の被官となった。永正六(1509)年には連歌師の宗長が勝沼城三田弾正忠氏宗を訪問していることが「東路の津登」に記されている。小田原北条氏の侵出により一時北条氏の配下になったが、永禄三(1560)年の上杉謙信の関東出陣に呼応して、翌永禄四(1561)年の小田原城包囲戦に参加している。謙信が越後に帰陣したのちは武蔵周辺の豪族の多くは北条氏にふたたび降ったが、三田氏は頑強に抵抗し、滝山城の北条氏照の攻撃を受ける。永禄六(1563)年にはこの勝沼城を放棄、辛垣城に籠城し抵抗するがこれも翌永禄七(1564)年に落城、三田綱秀は太田資政を頼って岩槻城に陥ち延びたが、そこで自刃して三田氏は滅亡した。三田氏滅亡後は師岡山城守将景が入城し、「師岡城」と改称したが、天正十八(1590)年の小田原の役で落城し廃城となった。

三輪さんの「城跡をゆく」を見て、無性に行きたくなって出かけました。
城主の三田氏についてはまだ勉強中で詳しく分かりませんが、この地方の在地土豪によくあるように、もともとは関東管領・山内上杉氏に仕え、山内上杉氏の没落後は北条に与していたようです。ところが周辺の大石氏や藤田氏らと違って、最終的に北条に敵対して滅亡に至ります。このあたりの経緯がイマイチ不勉強で申し訳ないのですが、婚姻政策等で在地土豪とその領土を効率的に自軍団に組み込んできた北条氏としては珍しく、三田氏が滅亡に至るまで徹底的に闘ったようです。

その三田氏の本拠といわれる勝沼城は青梅市街地を見下ろす小高い丘の上にあり、妙光院、光明寺というお寺の裏山に良好な遺構を残しています。今見ればさほど要害地形には見えませんが、多摩川を外堀に、周囲は湿地に囲まれていたのでしょう。光明寺の裏山に通じる谷津には、湿性植物が生えていて、かつての地形を忍ばせています。城の南側、市街地に面した斜面は現在は墓地等になっていますが比較的急な斜面、逆方向の「青梅ゴルフ倶楽部」方面は行っていないのでどういう地形か不明ですが、谷津が東西から食い込んでいて、その鞍部を堀切等で断ち切ったものであろうと推定します(地形改変のため断言できず)。比較的平坦面が広く、曲輪間の比高差も小さく、典型的な中世の平山城(丘城)の様相を見ることができます。特徴的なのは曲輪を廻る横堀の存在で、主郭と比定される光明寺裏山の南端部や二郭と比定される北の曲輪ではその様子がよく確認できます。三郭比定の東側の曲輪、妙光院墓地周辺には横堀から伸びた竪堀や複数の堀が交錯する様子が見られ、大規模ではないものの技巧面での見所もあります。主郭南東端には三日月堀のような曲線を伴う堀があり、二郭周囲の横堀とあわせ、武田氏系の城郭に似た技巧も見られます。ただこの三日月状の堀は馬出しのような独立した虎口空間は伴っていないようです。また、妙光院裏の墓地参道周囲の堀にはわずかですが堀内障壁のようなものが見られ、畝堀や障子堀だった可能性もあると思います。二郭比定地裏の低地(通称「落込」)には、方形の堀のような空間がふたつあり、湿地を利用した堀だったのか、溜池のような施設か、あるいはなんらかの建物跡か、はたまた後世の改変なのか、興味を引きます。また、周辺の丘陵上にも何らかの遺構がある可能性もあると思いますが、日没間近で詳しく探索はできませんでした。もしかしたら「鉄道公園」のある丘陵上にも出城みたいなものがある気がするのですがどうでしょうか。青梅市周辺には良好な遺構を残す城跡が多く、それらとあわせてもう一度、じっくり探索してみたいと思います。

東京都にもまだまだこんな素晴らしい城跡が沢山あるんですね。トーキョーも捨てたもんじゃないな。

光明寺・妙光院裏の小高い丘陵が城域です。多摩川とそれを取り巻く低湿地を防衛線としてものと想像します。

丘陵から青梅市街地を見る。三田氏はこの青梅から秩父、入間にかけての肥沃で広大な地域を支配していました。

主郭と比定される曲輪の土塁。わずかですが折り歪みも見られます。 主郭東南端の三日月状の堀。馬出しというほど完全に独立した空間というわけではないようですが、曲輪から突出した空間になっています。
主郭の北の曲輪の北側の堀切をまたぐ土橋。 北曲輪周囲の横堀。曲輪に沿って折れが見られます。
主郭東南側の一段低い曲輪を廻る堀と土塁。 その曲輪を廻る土塁。竹薮になっていて整備はされていませんが、土塁そのものは一番良好な状態で残っています。
複数の空堀が交差して、複雑な様相を見せています。 北曲輪背後に食い込んだ谷津、通称「落込」付近の謎の構造物。横矢の堀に見えますが、池状の方形空間がふたつ並んでいます。後世の改変かもしれません。
妙光院裏の墓地(東曲輪)に向かう参道沿いの堀と土塁。写真では不鮮明ですが中央付近が堀内障壁っぽく見えます。 こちらはその墓地の外周を廻る堀。これも堀内障壁を伴っているように見えます。ここには馬出しがあったようです。
日没が近かったため、駆け足での見学になってしまいました。三田氏のことも十分には勉強できていないし、周辺の支城群も見たいし、近いうちに出直しだな。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「八王子」ICから車30分、圏央道「青梅」ICから車5分。

JR青梅線「東青梅」駅徒歩10分。

周辺地情報

周辺には今井城、辛垣城、藤橋城などの三田氏関連の城郭が多く残ります。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「多摩丘陵の古城址」(田中祥彦/有峰書店新社)、現地解説板

参考サイト

城跡をゆく多摩の古城址

 

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