滝山城めぐり

その1:本丸〜中の丸周辺

 

永禄十二年、武田信玄来襲。

万余の風林火山に蹂躙されながらも陥ちなかった滝山城。

信玄もひと当てしてみたものの、その堅固さを察して兵を退く。

城将・北条氏照はこの戦いを顧みて、より堅固な山城を築くべく

八王子城築城に着手する。

そんな緊迫の瞬間に思いをはせながら廻ってみてください。

多摩川右岸の急峻な崖の上に築かれた滝山城。城域は非常に広く、急崖や入り組んだ谷津、浸食谷を巧みに取り入れた縄張。いわゆる「北条系」といわれる城郭の中でも最高峰の城の一つです。 高月集落の背後にある「山の神曲輪」は、滝山城中核部から天然の深い谷を隔てた出城形式。行ってはいませんが縄張図を見ると、一つの独立した城郭と言ってもいいくらいの場所です。

山の神曲輪下の思わせぶりな竹薮の中で見つけた石垣。当時のものかどうかはわかりませんが、位置的に屋敷地のひとつだった可能性が高いのではないでしょうか。 急崖につけられた道を進むと、大きな竪堀が見えてきます。藪化していますが、本丸の西を断ち切る堀切から斜面を伝ってまっすぐ伸びてきています。

急崖の歩道を登ると、本丸周囲の深い堀切に出ます。この堀切はやはり竪堀となって斜面に降りて行きます。この堀底が登城路として使われていたかどうかは分かりませんが、恐らく搦手道の一つだったのではないかと思います。 堀底から見る、本丸と中の丸の間の曳き橋。橋はもちろん復原です。堀は非常に深く、かつては曳き橋や桔橋で繋がっていたと言われます。

曳き橋の先を西に曲がると本丸への枡形虎口があります。坂入の虎口に堅固な土塁枡形を付属したものです。 同じく本丸虎口。後述する曳き橋側にも大きな枡形虎口があります。この写真の虎口は防御は堅固ですが、堀底から直登できてしまう位置にあり、防御上なぜここに虎口を置いたのか、多少疑問に思わないでもありません。

本丸曲輪。大きく二段に削平され、下の段はほぼ土塁が取り巻いています。上の段には土塁はなく、多摩川河畔の急崖に面しています。上の段には現在、霞神社が祀られています。 本丸曲輪の下の段に残る大井戸。水は涸れています。背後には前述の枡形虎口から連なる土塁が見えています。

本丸上の段から見た多摩川、現在の昭島市方面。非常に眺望が利きます。多摩川はかつては流量もはるかに多く、河道も定まっていなかったでしょう。これが滝山城の天然の外堀にあたります。 本丸周囲の急崖。この方面の比高差は50m-70mほどで、斜面が急な本丸付近はよじ登るのはまず不可能。緩斜面には竪堀や曲輪を配して守りを固めています。とにかく堅固。

本丸西側を断ち切る堀切。この西側方面は特に整備はされていませんが、山の神曲輪との間に横たわる深い谷に向けて数段の曲輪が設けられているようです。この堀は前述の竪堀へ繋がっています。 本丸の曳き橋虎口に近い土塁上に建てられた城址の碑。

本丸と中の丸を繋ぐ曳き橋の袂に設けられた枡形。2m前後の土塁に囲まれた明瞭な枡形遺構です。枡形は本丸に向かって狭くなり、防御を固めています。発掘調査によれば、かつては石敷きだったことが分かったそうです。 中の丸。ここも土塁が見られます。本丸と同じく多摩川沿いの崖に面しているため、眺望に優れています。東側には「丈夫谷」という深い谷があり、周囲の曲輪と途絶されています。なお中の丸という表現は現地の案内に従いましたが、「城郭大系」ではここを二ノ丸としているようです。
中の丸に建てられている簡易トイレ背後の土塁。やや不整形な土塁ですが、曲輪からの高さは3mほどもあり、写真奥の一段高い場所は櫓台が設けられていたかもしれません。 中の丸の虎口。本丸虎口ほど明瞭な枡形空間ではなく、車道整備の際に若干改変されているように見えます。」
中の丸南側の巨大な堀。この先はさらに深い谷に落ち込んでいきます。 左写真の堀の先は「丈夫谷」と呼ばれる深い天然の侵食谷。多少削崖等で手を加えられていて、後述の信濃屋敷方面との間の堀切になっています。降りてみましたが、復帰するのが大変でした。。。
本丸の南に位置する池跡。起伏のある台地のなかで、窪地を池として活用していたのでしょう。白く見えるのは霜です。 本丸・中の丸方面から二ノ丸へ向かう土橋。この先は鋭く屈曲しています。車道整備のため若干は改変されていますが、この屈曲は各虎口ともよく残っていて、滝山城のみどころのひとつと言えます。

その2:二ノ丸〜三ノ丸周辺へ

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