箱根路の入り口を護る「土の芸術」 

山中城

やまなかじょう Yamanaka-Jo

別名:

静岡県三島市山中新田

城の種別

山城

築城時期

天正十五(1587)年

築城者

北条氏直

主要城主

松田康長

遺構

曲輪、土塁、空堀(畝堀・障子堀等)、土塁、櫓台、虎口、井戸、池等

西ノ丸周囲の堀障子<<2001年09月01日>>

歴史

もともとは永禄年間に、北条氏と武田氏の対立に備えて箱根の守りとして築城された。天正十五(1587)年、中央の豊臣政権との関係が緊迫すると、豊臣軍の来襲に備え、天正十八(1590)年二月の開戦間際まで工事が進められた。天正十八年三月二十七日、秀吉が沼津に着陣、長久保城で軍議を開き、箱根の最前線である山中城には羽柴秀次を総大将に、中村一氏、田中吉政、堀尾吉晴、山内一豊、一柳直末らの七万にも及ぶ兵が押しかけた。三月二十九日未明に攻撃が始まり、城兵四千は奮戦したが、まず岱崎出丸を陥とされ、援軍の間宮康俊は戦死、本丸も程なく破られ北の丸での攻防の後、城主・松田康長も戦死、北条氏勝は玉縄城に落ち延び、わずか半日で落城した。
現在は国道一号線が城址の真中を走っていて、大型車両が爆音を轟かせていますので、静かな感じはしません。「道路で遺構が分断!」って怒ってはいけません。三ノ丸等が若干破壊されているものの、主要な曲輪はよく残っていますし、なによりもともと東海道を城内に取り込んだ縄張なのですから、400年後の今、国道1号が走っているのはこの城の「正しい姿」なのだ。
山中城は箱根の入り口を守る要衝でしたが、秀吉の北条討伐ではたったの一日で落城してしまいました。やはり多勢に無勢、ということでしょうか・・・。
城址そのものはかなり整備されていて、現存というよりは相当の規模で復元改修されたものになっていますが、北条のハイテク築城術はたっぷり味わえます。石垣は一切使っていなくて、土塁・空堀中心の城なのですが、とくにその堀は障子堀・畝堀などの技巧が「これでもか」というくらい全面的に使用されていまして、北条の城作りに対するコンセプトや土木技術が十分に堪能できます。よく「典型的中世山城」とか言われますが、この城はそうじゃないと思いますよ。いわゆる典型的な中世山城って、山頂の曲輪を中心に急斜面や尾根、谷などの自然地形をフル活用した要害であるのが普通なのですが、この城はもちろん標高はそれなりに高く、自然地形も十分に生かされてはいますが、山頂ではなく山腹の傾斜地に作られていること、尾根を断ち切る堀切などの遺構が少ないことから、自然地形に頼ったというよりはむしろ人工的な普請によって要害を構築している、と言えます。要害性よりもむしろ主要街道を取り込む事の方が優先度が高く、また防備の主体が西側に置かれていることから、平時は街道交通を取り締まる番城、非常時は西からの侵攻に対する箱根防備の最前線、というコンセプトがはっきりしています。

まあ理屈はともかく、一度訪れて見てください。駐車場もあるしよく整備されているし、景色もいいし、余計な模擬天守もないし、何より「土塁と堀だけでこんなに多彩な城ができるんだ!」という驚きと感動がきっとあるはずです。あと余談ですが、池波正太郎の「戦国幻想曲」という本では、この山中城攻めの様子が生き生きと描かれています。お薦めの一冊。

山中城めぐり

 

 

交通アクセス

東名高速道路「沼津」ICより車30分

JR東海道線三島駅よりバス

周辺地情報

箱根の山を越えて小田原城石垣山城。三島市・沼津市方面であれば興国寺城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「関東三国志」(学研「戦国群像シリーズ」)、別冊歴史読本「検証 戦国城砦攻防戦」(新人物往来社)、「真説戦国北条五代」(学研「戦国群像シリーズ」)、現地解説板、現地配布パンフレット

参考サイト

 

 

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