北条氏の城郭といえば、街道を取り込んだ丘陵上や崖端に築かれる例が多く、山城は多くは無いのですが、この戸倉城はそんな数少ない山城のひとつです。とは言っても純粋な北条の城ではなく、もともとこの一帯を支配した小宮氏、大石氏の属城で、北条氏照が大石氏の養子になって滝山城に入城してからは、隠居した大石定久が住んでいたといわれます(異説あり)。大石定久は北条の傘下に入ってからも必ずしも快く臣従したわけではなく、三田氏らと画策して上杉に内通するなど、最後まで抵抗していたようです。しかしその最後については今ひとつ明らかではありません。北条氏照の傘下については記録が少なく、まだまだ不明なことも多いようです。この戸倉城の位置付けも今後、評価が変わってくるかもしれません。
山は比高差こそ100mそこそこではありますが、ほぼ独立峰で、かつ頂上付近は岩だらけの非常に急峻な地形となっていて、天然の要害ではありますが、その地形ゆえに大きな曲輪や大掛かりな防備は見られず、非常にシンプルな山城です。秋川渓谷の入り口というその立地条件ゆえに、北条氏にとっては重要な烽火台として利用されたのでしょう。この戸倉城をはじめとして、西多摩から丹沢山系にかけては北条氏の城郭としては数少ない山城が連続する地帯になっていますが、八王子城、津久井城は別格として、その他の城は殆どが単なる烽火台、あるいは烽火台と根古屋式城郭の中間的な構造をしています。この戸倉城も山麓に居館を構えている点では、居住目的を持つ根古屋式の山城とも言えますが、こと山城の部分に関しては実態は烽火台、とくに甲州方面からの仮想敵に備えて設けられた、北条系光通信の一端を担うもの、と捉えるべきでしょう。
この山には狭いピークが二つあり、それぞれが削平されて小規模な曲輪になっているほかは、若干の腰曲輪や曲輪間の尾根の鞍部を利用した虎口空間があるくらい、その他に目を惹く遺構には乏しい印象です。解説板には「枡形虎口等がよく残っている」ことになっていますが、実際に登ってみると枡形といえるような明瞭なものではなく、鞍部を利用したシンプルな虎口空間があるだけです。堀切、といわれるものもありますが、尾根を断ち切る堀切というよりは、緩斜面を補う程度の堀で、むしろ帯曲輪に土塁を盛っただけにも見えます。大手道は山麓の神明社付近から伸びていたようで、現在は道の両側を石垣に固められた堀底状の直登ルートになっています。登山路はこの大手道と、永厳寺左手から上るルートの二つがありますが、どちらも直登に近いルートで、厳しい登りが続きます。僕はこの永厳寺のルートから登りましたが、主郭直前の剥き出しの岩盤を登るのはかなりキツかったです。その分、主郭から見る景色は格別です。
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