>栃木県

 

足利の里を見おろす古城

両崖山城

                                                  

りょうがいざんじょう Ryougaizan-Jo

別名:足利城、飯塚山城、小屋城、栗崎城

【両崖山城からの眺望】

<<2004年05月01日>> 

所在地

栃木県足利市本城一丁目(両崖山山頂周辺)【電子国土】

※登山口 織姫公園【電子国土】

埋もれた古城マップ:栃木編【GoogleMaps】

交通アクセス

北関東自動車道「足利」IC車10分、JR両毛線「足利」駅徒歩20分、東武伊勢崎線「足利市」駅徒歩25分で登山口の織姫公園。公園より距離1.1km、約30分。

行き方・注意点

織姫公園を目指す。ハイキング道は整備されているが尾根のアップダウン、岩場が多い。

【基本情報】

築城年 不明 主要遺構 曲輪、堀切、土橋
築城者 藤原(足利)成行 標/比/歩 標高251m/比150m/歩130m、織姫公園より距離約1.1km
主要城主 藤姓足利氏、足利長尾氏 現況 神社、山林

【歴史】

藤原秀郷の子孫、成行が築城しこの地を130年間治めたという。

文正元(1466)年、享徳の大乱の中、古河公方に対抗する山内上杉氏の代官として長尾景人が足利に入部、観農城を築城した。文明年間(1469-1486)、足利長尾氏の三代、景長のときに観農城からこの両崖山の古要害を修築して本拠を移転した。四代憲長、五代政長は上杉謙信に従い北条氏と各地で転戦したが天正十三(1585)年、顕長の代に北条氏に降った。しかし天正十八(1590)年の小田原の役で敗北し両崖山城は廃城、足利長尾氏も断絶した。

【雑感】

山麓の織姫公園という総合公園から登山道が伸びています。この登山道は、比高差はそれほどでもないのですが、尾根上を激しくアップダウンしながら登っていきます。しかも足元は岩だらけなので、登山に慣れていない人は時間に余裕を持って行きましょう。僕はこの後、足利氏館に行きたい一心で、早足で登りました。いやはや、疲れた。

以前は足利氏の詰の城かと思っていましたが、足利氏とは直接関係はないそうです。もともとは藤原秀郷の孫が篭った要害といい、戦国期には足利長尾氏が再築城したものです。現在の遺構はこの長尾氏のものでしょう。とは言っても、戦国後期に多く見られるような大規模な防御施設は殆どなく、尾根筋を何本かの堀切で断ち切っている以外は、自然の地形頼みの古めかしいスタイルの城です。南北朝期の城のようでした。

堀切は登山道のある南の尾根筋に3本、西の尾根筋に1本、北の尾根筋に3本あります。このうち西の堀切と北の本丸寄り堀切は規模が大きく状態も良いため、一番の見どころです。逆に他の堀切は殆ど埋まってしまっていますが・・・

本丸周囲には石垣風の石積みが数箇所に見られますが、これが遺構なのか、後世に神社を建立した際のものなのかは不明です。おそらく後者でしょう。

ところどころ眺望ポイントがあり、唐沢山城と同じく遠く都心の高層ビル街や富士山がバッチリ見えました。

[2004.06.13]

こんな岩だらけの登山道です。

岩場に突き出た推定物見台。この下と上には、浅くて見落としそうな堀切があります。

最後の石段を登ると本丸下の腰曲輪。神社と簡単な城址の説明があります。

神社そばの石垣。しかし遺構かどうかは不明です。

本丸跡。

本丸西側の堀切。

こちらは本丸北側の最大の堀切。

これは北側二番目の堀切。北側には三本の堀切がありました。

織姫公園から見た両崖山。

織姫公園にはこんなものも。円墳です。

訪城記録

(1)2001/12/15

(2)2004/10/02

 

参考サイト

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦国時代の終焉」(齋藤 慎一/中公新書)

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

現地解説板

推奨図書
       

     

戦国時代の終焉 - 「北条の夢」と秀吉の天下統一 (中公新書(1809))   

 

北関東における北条氏VS反北条氏の対陣となった「沼尻の合戦」を中心に、「小田原の役」までの関東と中央政局の動きを描く。足利長尾氏の動向も大きく取りあげられている。

 

周辺地情報

足利氏発祥の地・足利氏館、足利氏ゆかりの学校・足利学校。

埋もれた古城 表紙 上へ