羽生城の築城時期は明らかではないが、三宝荒神像に天文五(1536)年の広田直繁、忠朝の名があり、この当時広田式部大輔直繁が城主だったとみられる。天文年間には古河公方足利氏の勢力下にあったものと思われるが、天文二十三(1554)年、北条氏康が古河城を攻略した際に羽生城も落城し、中条出羽守が城代として置かれた。永禄三(1560)年、上杉謙信が関東に侵攻し、羽生城も陥として中条出羽守を追い、広田直繁、木戸忠朝兄弟に安堵した。その後、謙信の十数回に及ぶ関東侵攻の際には、羽生城主広田氏と皿尾城主木戸氏は軍役五十騎を課せられ、つねに参陣している。元亀元(1570)年二月、広田直繁は上野館林城に移り、木戸忠朝が羽生城に移った。
元亀三(1572)年、相越同盟が破棄され、八月、北条氏政は羽生城を攻めようとした。謙信は木戸忠朝に救援に赴くことを伝え、羽生城の守備を一層厳重にするよう命じた。しかし、下総栗橋城主の北条氏照軍により大敗し、木戸忠朝は上野金山城へ敗走した。天正元(1573)年、北条氏政はふたたび羽生城を攻め、周辺の深谷城の上杉憲盛も降伏したため、状況はさらに悪化した。
天正二(1574)年、「第三次関宿合戦」において、簗田持助は佐竹義重・上杉謙信らに救援を求めたが、利根川の増水や、金山城主・由良成繁の離反により積極的な支援ができず、謙信は羽生城に陣を構えて佐竹義重らに同陣を呼びかけたが、佐竹義重が謙信の心変わりを警戒して共同作戦が取れず、簗田氏はとうとう関宿城を開城し水海城へ撤退した。謙信は羽生城が越後から遠く、救援が間に合わないのを恐れて破却し、木戸忠朝以下一千の城兵を上野膳城に移した。
謙信撤退後は天正三(1575)年、忍城主の成田下総守氏長の支配下に入り、城代として成田大蔵少輔長親、善照寺向用斎、野沢民部らが置かれた。
天正十八(1590)年の小田原の役では城代の善照寺向用斎は成田氏長の命により羽生城を棄てて忍城籠城に加わった。天正十八(1590)年八月、徳川家康が江戸城に入城すると、羽生城には大久保忠隣が二万石で置かれた。忠隣は文禄三(1594)年に父・忠世の死によって家督を嗣いで小田原城に移り、羽生城主も兼務した。大久保彦左衛門忠教も一時居住したという。慶長十九(1614)年、大久保忠隣は改易に処され、羽生城は破却され、天領となった。