平井城の詰めの要害
平井金山城
ひらいかなやまじょう HiraiKanayama-Jo
別名:平井詰城
群馬県藤岡市鈩沢
中世山城
築城時期
応仁元年(1467)年
築城者
上杉顕定
主要城主
山内上杉氏
遺構
曲輪、土塁、石垣、虎口、井戸
平井城の詰城、平井金山城本丸<<2001年9月24日>>
歴史
平井城は永享十(1438)年、関東管領の山内上杉憲実の築城と言われるが、要害である平井金山城は応仁元(1467)年、上杉顕定による平井城改修の際に新規で取り立てられたと言われる。
天文十五(1545)年の河越夜戦で敗れた上杉憲政は平井城で抵抗するが、天文二十一(1552)年、北条氏康の攻撃を避けて脱出、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃れ、平井城は降伏・開城した。天文二十二(1553)年には景虎配下の平子孫三郎らによって奪回されるが、永禄三(1560)年の上杉政虎(長尾景虎)の関東出陣の際に平井城は廃城となった。この平井金山城での戦闘があったかどうか、廃城がいつであったか、等は不明。
平井城そのものは河越夜戦での上杉氏敗退と上杉憲政の越後逃避行、長尾景虎(上杉謙信)への関東管領相続などの関連でよく歴史には登場するものの、詰城であるこの平井金山城の存在は意外と知られていない。その割には遺構の数も保存状態も良好で、いわゆる「典型的な中世山城」を楽しむことができます。
それにしても全山個人所有とは。。。公有化しなくても、心ある地元の人の整備で、これだけの遺構が見られるというのは素晴らしいことですね!
注意点として、斜面が急な上に地盤が脆いのでくれぐれも滑落に注意!雨の後なんかは行かない方が無難。落石の痕跡もあります。また、この近辺は有数の雷多発地帯なので、「アヤシイ」と思ったら行かない勇気も必要です(僕は一度、雷雲を見て諦めました)。
それにしても気になるのが山麓付近の石垣群。なんにも解説も出ていないし、史跡指定域からも外れているのだけれど、どう見ても立派な遺構なんですよね。石垣に破却痕もあるし。そもそも全体の規模からしても、単なる有事の要害、というよりは、平素から一定の役割を持って使われていた可能性も充分あるのでは?と思っています。
それにしても気になる山麓付近の石垣群。僕個人としては「あの場所に後世の人が石垣を築く理由は何もない。この山は自然石が豊富だから、あの石垣は遺構の一部である。しかも、一番大きな石垣は、城主か城代クラスの重臣の屋敷である。石垣の隅が崩れているのが、意図的に破却された証拠だ!」という結論に達しました。果たして真相やいかに!?ご存知の方、情報下さい!
交通アクセス
上信越自動車道「藤岡」IC車20分。
周辺地情報
関連サイト
参考サイト
からっ風倶楽部