築城時期等の詳細は不明。臼井城を本拠とした臼井氏の一族で、印旛郡臼井庄和良比を領して和良比(蕨)を称した一族の城館と推定される。
永正十四(1517)年、真里谷城主武田信保は古河公方・足利高基の弟、義明を擁立し小弓城の原胤隆を攻め陥落させ、翌永正十五(1518)年に足利義明は小弓城に入城し「小弓公方」と呼ばれるようになった。足利義明は兄の高基と対抗し、房総から常陸南部にかけての在地勢力に呼び掛け、武田信保、里見義通らに擁立されて「小弓公方勢力」を形勢、上総・下総国境付近では高基派の千葉氏とその一族らが小弓公方勢力と戦った。この頃、古河公方足利高基から千葉勝胤に宛てた書状の中で「臼井不忠先代未聞候」としていることから、臼井氏の当主、景胤が古河公方派から小弓公方派に寝返ったことがわかり、その際に和良比堀込城も小弓公方勢に接収された可能性がある。また大永三(1523)年十一月には、千葉昌胤の子、利胤が千葉妙見宮での元服ができず、止む無く本佐倉城周辺の佐倉妙見宮神前で元服したことから、千葉荘周辺の地域は小弓公方勢力によって制圧されていたことが考えられる。
この頃の足利義明(入道道哲)から里見上野入道(義通)に宛てた書状の中で、「敵城近辺田井、横山、小沢要害、根小屋以下悉被打散、其地至干蕨帰陣之由聞候、目出度簡要候、然者、此度関宿江動被成之、度々被走廻候者、弥以可為戦功候、為其東祝被遣候、恐々謹言」とあるが、この「敵城」が千葉氏の本拠本佐倉城、「蕨」が和良比堀込城であると言われており、和良比堀込城は小弓公方勢の北進基地であったらしいことがわかる。
その後の詳細は不明だが、天文七(1538)年の第一次国府台合戦で足利義明は討ち死にし小弓公方は滅亡、臼井景胤も千葉氏、原氏らに降伏、景胤の子、久胤は原胤貞を後見として臼井城に迎え入れ、実質的に原氏の支配下となったことから、属城である和良比堀込城も原氏の支配下に入ったものと思われる。廃城の時期も不明。