小弓公方勢、北進の最前線

和良比堀込城

わらびほりごめじょう Warabi-Horigome-Jo

別名:蕨城

千葉県四街道市美しが丘

 

城の種別

平山城

築城時期

不明  

築城者

和良比氏?

主要城主

和良比氏、里見氏、原氏(?)

遺構

土塁の一部、空堀の一部、曲輪の一部

城址の一角に建つ解説板<<2002年07月14日>>

歴史

築城時期等の詳細は不明。臼井城を本拠とした臼井氏の一族で、印旛郡臼井庄和良比を領して和良比(蕨)を称した一族の城館と推定される。

永正十四(1517)年、真里谷城主武田信保は古河公方・足利高基の弟、義明を擁立し小弓城の原胤隆を攻め陥落させ、翌永正十五(1518)年に足利義明は小弓城に入城し「小弓公方」と呼ばれるようになった。足利義明は兄の高基と対抗し、房総から常陸南部にかけての在地勢力に呼び掛け、武田信保、里見義通らに擁立されて「小弓公方勢力」を形勢、上総・下総国境付近では高基派の千葉氏とその一族らが小弓公方勢力と戦った。この頃、古河公方足利高基から千葉勝胤に宛てた書状の中で「臼井不忠先代未聞候」としていることから、臼井氏の当主、景胤が古河公方派から小弓公方派に寝返ったことがわかり、その際に和良比堀込城も小弓公方勢に接収された可能性がある。また大永三(1523)年十一月には、千葉昌胤の子、利胤が千葉妙見宮での元服ができず、止む無く本佐倉城周辺の佐倉妙見宮神前で元服したことから、千葉荘周辺の地域は小弓公方勢力によって制圧されていたことが考えられる。

この頃の足利義明(入道道哲)から里見上野入道(義通)に宛てた書状の中で、「敵城近辺田井、横山、小沢要害、根小屋以下悉被打散、其地至干帰陣之由聞候、目出度簡要候、然者、此度関宿江動被成之、度々被走廻候者、弥以可為戦功候、為其東祝被遣候、恐々謹言」とあるが、この「敵城」が千葉氏の本拠本佐倉城、「」が和良比堀込城であると言われており、和良比堀込城は小弓公方勢の北進基地であったらしいことがわかる。

その後の詳細は不明だが、天文七(1538)年の第一次国府台合戦で足利義明は討ち死にし小弓公方は滅亡、臼井景胤も千葉氏、原氏らに降伏、景胤の子、久胤は原胤貞を後見として臼井城に迎え入れ、実質的に原氏の支配下となったことから、属城である和良比堀込城も原氏の支配下に入ったものと思われる。廃城の時期も不明。

探すのに相当手間取りました。なんといってもすっかりニュータウン化してしまって、本来城のあった丘も大半が吹っ飛んでしまっているので、目印になりそうなものがほとんどありません。二郭のほんの一部が名前すらない緑地公園となって残っているだけですし。やっと見つけても、人っ子ひとり居らず、通路以外は夏草が伸び放題、なんとも侘しい城です。
台地先端にふたつの曲輪と馬出し状の腰曲輪をもつ、ごく小規模な城館だったらしいのですが、二郭の隅っこ以外は完全に切りくずされ、宅地、道路、バスの転回所などになってしまいました。これも時代の流れですかね。。。近くに「美しが丘児童公園」「美しが丘近隣公園」などがありますが、どうせならこっちを公園化して残してくれれば良かったのに、と思いますけどね。その分、ごく一部でも残っていること、四街道市がきちんと発掘調査をして、その成果を解説板として残してくれていることが貴重ともいえます。残っている部分も、堀や土塁を含む、わりと「オイシイ」部分ですし。もちろん、地形がそのまま残っていればもっと良かったのですが。四街道市は千葉市に隣接したベッドタウンとして急速に宅地化が進んでいます。時代の要請でこうした城館遺跡が消えていくのは寂しいことではありますが、前述の発掘調査をきちんとしていること、各城址に設置された道しるべや解説板設置などの姿勢は好感が持てます。どうか千葉市に合併などされずに、その高い見識を生かして欲しいと思う次第です(千葉市の方、ゴメンナサイ)。

歴史の上では、小弓公方・足利義明派と古河公方・足利高基派の対立で登場します。永正十七(1520)年頃、足利義明の命を受けた里見義通らが「敵城近辺」の「田井・横山・小沢要害、根小屋」を攻め「」に帰陣した、との記録があり、「敵城」を千葉勝胤、昌胤父子の本拠である本佐倉城とし、この「蕨」が当地と言われています。とすれば、この当時小弓公方勢は下総のかなり奥深く、千葉氏本拠の本佐倉城にすぐそこの距離まで勢力を伸ばしていたことになります。ただここで言う「敵地」を大多喜城庁南城と比定する見方もあるようですが、小弓城を中心とする小弓公方勢力が大多喜庁南方面に出兵してこの「」に帰陣するというのも、不自然さは否めません。この書状では、「次は関宿城の攻撃をよろしくネ」となっているので、大きく見れば第一次国府台合戦の遠因となった、小弓公方による古河城および関宿城包囲網の一環として捉えるのが適切なのかもしれません。

個人的には、立地的に千葉氏・原氏の勢力圏が近すぎて「帰陣」する場所としては随分無用心というか大胆すぎる気がしますし、発掘時の航空写真を見る限り、とても大軍が駐留できるような場所ではない、前線の城にしては守りも貧弱、といった疑問がないわけでもありません。小弓公方の滅亡後は立地的に見て臼井城に入城した原氏の配下になったか、それとも支城としての役割をすぐそばの鹿渡城に譲って、廃城となったかもしれません。ただ、調査するにも充分な資料もなく、城そのものが無くなったと言ってもいい現状では、調べようが無いです。

新興住宅の一角に残る名も無き緑地公園。これが変わり果てた和良比堀込城の姿。この道路も、かつては城の一部、丘陵だったのだ。 公園に入るとすぐ眼に入る堀切と二重土塁。道路により寸断され、ごく一部が残ります。
二重土塁の一部。ここは馬出し状の曲輪。戦国期の拡張でこういった構造物が設けられたのでしょう。本来は曲輪がふたつのごく小規模な城館だったようです。 二郭の土塁。ちょうど残った部分が曲輪の角にあたるため、土塁の折れがよくわかります。オイシイ部分が残って良かった、と思っていいのか俺?それでいいのか?
一応公園になっている二郭の一部。これ以外は丘ごと吹っ飛んだ。公園と言っても何も無く、人っ子一人居らず、歩く場所以外は夏草が伸び放題。。。 主郭付近は切り崩され、道路や宅地、バス転回所(ToT)に。バス転回所ってそんなに大事か?中世の城館遺跡よりも??

左は昭和六十一年に行われた発掘時のもの。どうですかこの素晴らしい状態は!これが現在では、左下の四角い白線で囲った部分だけが残り、あとは宅地や道路として丘ごと無くなってしまいました。きちんと発掘調査を行っていること、それが解説板として残された場所に設置されていることが救いです。

久々の里見氏ゆかりの城館でしたが、これじゃね。。。まあ、それでも完全潰滅じゃないだけマシでしょうか?

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「四街道」ICから車10分。

JR成田線「四街道」駅より徒歩5分。

周辺地情報

近くの鹿渡城が見所満載、市内では他に福星寺館木出城、中山城などの小規模な城館群があります。

関連サイト

 

 
参考文献 「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登/図書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

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