密集する単郭居館群

木出城

きでじょう Kide-Jo

別名:吉岡城

千葉県四街道市吉岡

 

城の種別

平山城(変形方形居館)

築城時期

不明  

築城者

不明(千葉氏一族?)

主要城主

不明(千葉氏?臼井氏?原氏?)

遺構

土塁、空堀

主郭を取り巻く土塁<<2002年07月14日>>

歴史

築城時期、城主等は不明。鎌倉〜室町期の在地領主の館と思われる。この吉岡をはじめとした周辺地区は「七ヶ村」と呼ばれていて、十六世紀には千葉宗家の所領であったことから、千葉氏宗家の一族による城館との見方もある。戦国時代後期にかけては、臼井城の臼井氏、原氏の一族とも関係があったであろう。

城主も築城時期も不明ですが、たかだか半径500mかそこらの範囲に、木出城福星寺館、中山城(未訪問)などのどれも似通った、単郭に近い簡素な構造の城館が寄り添うように集まっています。中山城を見ていないので何ともいえませんが、おそらく同一の一族の居館群で、築城時期も大体同一ではないかと思います。

木出城は狭い谷津の奥まった部分に突き出した台地の先端に位置しており、周囲は比較的急斜面、現在水田になっている谷津はおそらく湿地であったでしょう。かといって特に要害であるとも思えず、領地支配の城としても規模が小さすぎ、その城郭としての性質は疑問です。位置的には亥鼻城を居城とした千葉宗家の出城だった可能性、臼井城の臼井氏や原氏、弥冨原氏の関係も考えられます。いずれにしても規模と構造からして、鎌倉時代から室町初期の在地土豪か千葉氏の庶流の居館であったものを、室町中期に上記の千葉氏の一族が改修したものではないでしょうか。これら密集する城群は別個に捉えるよりも、それぞれが集まって一つの城郭を成している、と考えてもいいような気がします。

構造的には前述のとおり、ほぼ単郭に近い、変形方形館となっていますが、現在畑になっている台地の付け根の部分の周囲にも空堀が認められ、いわゆる主郭に付随して、第二郭が拡張されていた可能性もあります。主郭周囲の堀には折り歪み・横矢を伴っていて、堀や土塁の規模はその単純な構造とは対照的になかなか大きなものです。城構え、というほどの縄張りではありませんが、明らかに戦国期に改修が行われているようです。かといって立地的にも規模的にも構造的にも、戦国後期まで使われていたとも思えません。おそらく「享徳の大乱」に連動した千葉氏の内訌や、上杉氏との闘い、三上の乱、せいぜい古河公方家の内部分裂のあった大永年間くらいまでのものと思います。

狭い谷津の奥深くに突き出した小丘陵が城址。写真手前の田はかつては湿田だったでしょう。 丘陵先端部にある解説板。四街道市はこうした解説板が充実しています。たまたまこれを見つけなかったら、城の場所はわからなかったでしょう。
台地上の推定二郭越しに主郭を見る。推定二郭は畑になっています。ここは築城後に拡張されたものでしょう。 推定二郭の北東を廻る堀。小規模で浅いながらも横矢もあり、ここが城の一部であっただろうことが推定できます。
主郭を廻る規模の大きい堀。正面には横矢も見えます。戦国期に拡張されたものでしょう。 推定虎口わきの櫓台と思われるひときわ高い土塁。小さな祠が祀られています。
主郭北西部に向けて開かれた虎口。当時のものかどうか確信は持てないものの、前述の櫓台の位置や堀切内部が小規模ながら枡形をかたどっていることから、虎口と見て差し支えないと思います。 ひし形の主郭を廻る土塁。曲輪内からは3m弱、堀からは6m前後あり、小規模な城郭ながらなかなか見応えのある遺構です。
福星寺館と同じく、せっかくの素晴らしい遺構なのに、その歴史が不明と言うのがなんとも惜しい気がします。それにしても夏の藪こぎは辛いですね。蚊には刺されまくるし(半袖だったのが大間違い)、「謎の昆虫」(他では見たことない虫たち)はウジャウジャしてるし。。。

 

 

交通アクセス

東関東自動車道「四街道」ICから車10分。

JR成田線「四街道」駅よりバス。

周辺地情報

北に500mで構造や規模のよく似た福星寺館があります。その西300mには中山城があります。

関連サイト

 

 
参考文献 「房総の古城址めぐり(下)」( 府馬清/有峰書店新社)、現地解説板

参考サイト

余湖くんのホームページ房総の城郭

 

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