本佐倉城に寄り添う出城
向根古屋城
むかいねごやじょう Mukai-Negoya-Jo
別名:
千葉県印旛郡酒々井町本佐倉
築城時期
戦国後期
築城者
千葉氏
主要城主
遺構
曲輪、土塁、空堀
右手・向根古屋城、左手・本佐倉城<<2002年12月07日>>
歴史
向根古屋城の築城時期等の詳細は不明。康正元(1455)年、前年から勃発した「享徳の大乱」に、鎌倉幕府創設以来の名族・千葉氏も巻き込まれ、亥鼻城を本拠にしていた千葉宗家は、一族の馬加城主・馬加康胤、小弓城主・原胤房らに攻められ、亥鼻城は落城、千葉胤直・胤宣父子は千田荘の志摩城、多古城で自害し、千葉宗家は滅亡した。康胤は後に千葉氏を名乗った(後期千葉氏)。康胤の孫・輔胤は文明年間に、亥鼻城に代わる本拠として本佐倉城を築城した。向根古屋城は戦国後期に本佐倉城の出城、または外郭の一部として築城されたと考えられる。
向根古屋城はひとつのお城として紹介するよりも、本来は本佐倉城の一部として紹介するべきなのかもしれません。とにかく、その距離が最も近いところでは100m強しか離れていないのですから。本佐倉城は印旛沼から南に深く入り込む谷津の最奥部に突出した台地に築かれているのですが、向根古屋城はその台地に谷津を挟んで南から向かい合うように突出しており、ちょうどその先端は本佐倉城の主要部である「城山」「奥ノ院」に向かっています。本佐倉城自体、戦国後期に大幅に拡張・改修され、周囲の家臣団屋敷を取り込んだ惣構え的な構造を持っていたようですが、向根古屋城も独立した城郭と考えるよりは、その惣構え、あるいは外郭ラインの一部とする方が自然です。ただ、直接的には本佐倉城と繋がっていないことから、独立して機能する支城(出城)と捉えました。
城郭としての構造物は基本的に台地続きの南側鞍部を断ち切る堀と土塁程度なのですが、この堀の規模が半端ではなく、本城である本佐倉城よりも雄大なくらいです。この堀と土塁のラインは直線的な構造で、横矢を目的とした出枡形構造などが見られます。また、城内に侵入するためには馬出し状の小曲輪を通り、二重の堀と出枡形からの攻撃を受けることとなります。この構造から考えると、本佐倉城よりもさらに新しく、より北条氏の直接的な築城指南・技術導入を受けているように感じます。遺構は手入れがされていないため見学はちと辛いですが、本佐倉城見学の折には南側の丘陵にある、このお城もぜひ立ち寄って頂きたいと思います。
交通アクセス
東関東自動車道 佐倉ICより15分
JR成田線「酒々井」駅徒歩20分。
周辺地情報
関連サイト
参考サイト
余湖くんのホームページ、房総の城郭