14世紀中頃、千葉氏によって築城されたと言われる。または、「総州山室譜伝記」によれば、弘治元年、井田刑部大輔の築城とも言う。
その後、坂田郷を領し千葉氏に仕える三谷大膳亮胤興の居城となったが、享禄年間(1528-31)になると、文安年間(1444-49)に山辺荘小池郷を領し、飯櫃城の山室氏の客将であった井田刑部大輔俊胤を祖とする大台城の井田氏が坂田郷に侵略する意図を見せ、それをきっかけに胤興、胤煕、胤良の三谷氏兄弟に内紛が発生、このときは主家に当たる本佐倉城の千葉勝胤が仲裁した。
しかし弘治元(1555)年閏十月十八日、飯櫃城の山室氏は坂田郷、千田荘方面へ侵攻、井田因幡守友胤は山室氏、和田氏らの援軍を得て、金光寺に参詣した三谷大膳亮信慈を奇襲、宝馬野での合戦で三谷氏に大勝し、三谷氏は滅亡、坂田城は井田氏が乗っ取ったといわれる。敗れた三谷信慈の一族、三谷蔵人佐は翌弘治二年に香取二ノ原で挙兵し坂田城奪回を試みたが、井田胤徳に反撃されて敗走した。この合戦では井田友胤の弟、氏胤が討ち死にし、友胤は合戦後剃髪入道し、嫡男胤徳が相続した。
胤徳は主家の千葉氏とともに小田原北条氏の配下となり、永禄年間には里見の将、正木大膳らの侵略を受けて戦い、天正年間には栗山川流域一帯を支配する在地土豪に発展した。さらに常陸佐竹氏の南下に際して、小金城の高城氏とともに牛久城の岡見氏を援けて在番した。
井田氏は小田原北条氏の配下として軍役三百騎を負ったが、天正十八(1590)年の秀吉の小田原攻めに際しては井田胤徳は小田原城に入城し杉田為鑑の配下で湯本口を守備、神保長門らのわずかの留守部隊を坂田城に置いたが、秀吉配下の軍勢に攻められ無血開城、廃城となった。井田胤徳は一旦下総に落ち延び、後に本佐倉城に入部した武田信吉(家康五男)に仕え佐倉領代官を務めた。信吉の転封に従い、水戸城で水戸徳川家に仕えた。元治元(1864)年、水戸藩士の末裔、井田好徳が来総の折、「因幡守友胤三百年忌法会」が行われ、旧臣の小関、寺田両氏が文書を頼りに各地に分散、帰農していた65名の旧臣を集め、落城後275年目に旧主従の再会を果たした。