安房里見氏と青岳尼オフ(1)

 

お城めぐりメーリングリスト」でお知り合いになったメンバーと、「安房里見氏と青岳尼」オフと題して一泊二日の房総の旅を楽しんできました。趣旨は、鎌倉太平寺住持の地位を棄てて、里見義弘との恋に走ったという「青岳尼」の足跡と、周辺の里見氏ゆかりのお城&史跡を歩いてその景色を追いかけよう、そんな感じです。

同じ千葉県に住んでいながら安房はなかなか遠く、滅多に行けない場所ですが、一泊&これ以上は望めないほどの絶好の晴天に恵まれて、盛り沢山の内容になりました。

では、その旅の記録をどうぞ。

 

◆日時

2003年9月27日(土)〜28日(日)

◆御参陣メンバー

鷹取さんご夫妻、箱根少将殿、御台殿(五十音順)、越後ノ丸

以上五名

◆撮影・幹事

 越後ノ丸

 

<興禅寺・青岳尼供養塔>

 

◆予備知識(より楽しんで頂くために)

 

里見氏(さとみし・清和源氏新田流):

安房から上総、下総の一部にかけて勢力を奮った戦国大名。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のモデルとなったことで広く知られるが、史実と伝説が入り混じり、実態は謎の多い一族である。安房里見氏初代は里見義実とされ、はじめ白浜城(安房郡白浜町)を居城とした。このころ、安房には東条・丸・神余・安西の「安房四氏」が割拠していたが、神余氏家中の下剋上平定を機に里見義実が瞬く間に安房統一を図ったと伝わる。三代義通、四代義豊の代には小弓公方・足利義明を支持し、古河公方・足利高基を支持する相模の北条氏や下総の千葉氏と戦った。義豊は天文二(1533)年、叔父の実堯を誅殺したことから内乱が発生、実堯の子・義堯が勝って里見氏嫡流は滅亡し、後期里見氏が当主となった(天文の内乱)。第一次国府台合戦で小弓公方が滅亡した後は北条氏と四十年にわたる抗争を繰り広げ、房総沿岸の水軍(海賊)が活躍した。義堯の子、義弘の代に北条氏と和睦(実質降伏)したが、義弘の死にあたり嫡男梅王丸と庶子(または義弘弟)の義頼の間で抗争が勃発、義頼が勝って里見氏を嗣ぎ、梅王丸は剃髪・幽閉された。義頼の子、義康は「小田原の役」では豊臣軍に味方して鎌倉などを攻撃したが、「関東惣無事令違反」に問われ、安房一国以外を没収された。義康の子、忠義は徳川配下の小田原城主・大久保忠隣の女を室に迎えていたが、大久保忠隣改易のあおりを受けて伯耆倉吉に配流となり、その地で歿した。これにより、大名としての里見氏は滅亡した。

 

青岳尼(せいがくに):

小弓公方足利義明の女。里見義弘の許婚であったと伝えられるが、義明の死により出家、鎌倉尼五山筆頭の太平寺住持として迎えられた。しかし、弘治元(1556)年の三崎三浦海戦のころに義弘が鎌倉に討ち入り、房総に連れ戻され、還俗して義弘の妻となったというが、永禄の始め頃(あるいは天正四年とも云う)死去したとされる。北条氏康は書状のうちで「太平寺殿むかい地(房総半島)に御うつり、まことにもつてふしきなる御くわたて」として青岳尼の行為を非難し、太平寺を廃寺・滅亡させた。富浦町の興禅寺、館山市の泉慶院に供養塔があり、どちらも青岳尼の開基ともいう。

初日:2003年9月27日(土) 晴天

【09:30】鎌倉尼五山筆頭という高い格式を誇る太平寺住持の地位を棄てて恋に生きたという、青岳尼の「第二の出発点」となった房総渡海の瞬間を感じるべく、一行は久里浜港から金谷港への「東京湾フェリー」へ。旅の出発はなんと、船による渡海であった。
まずはメンバー全員、「かなや丸」船上で記念撮影。ソレガシは一度乗っているので、「くりはま丸」か「しらはま丸」を期待してました・・・。まあ、乗ってしまえばおんなじデス。

いよいよ、二日間の旅が始まる。

■久里浜港(神奈川県横須賀市)--->東京湾フェリー(かなや丸)---->金谷港(千葉県富津市)

離れ行く三浦半島、迫り来る房総の山々、紺碧の海を見つめる青岳尼の眼差し・・・。その腕に聖観音菩薩像を抱きながら、青岳尼は西方浄土に背を向け、東へと海を渡る。
■金谷城(千葉県富津市)

【10:15】金谷へ上陸、その足で金谷城へ。ほぼ湮滅ながらも、発掘作業時に確認された石積みを伴う二ノ丸虎口(四脚門跡)が埋め戻されている。同地にある某スポーツセンターに申し入れの結果、快く見学許可。感謝です。 わずかに残る本丸区画へは道があるのもの施錠されていて通れない。残念!
■鋸山(千葉県富津市〜安房郡鋸南町)

【10:50】鋸山はロープウェイで山頂へ。わずか4分で頂上へ着く。お値段は往復900円と少々高め。でも、ここから見る景色は最高。少将殿はロープウェイ内でポーズ。金谷城は土採りで山体が無残にえぐられていた・・・。

見よこの絶景を!上から見た金谷城、眼下に広がる保田・吉浜から勝山城、金谷港、対岸に横たわる三浦半島の絶景に見とれる・・・。

■妙本寺--->勝山城--->源頼朝上陸地(千葉県富津市〜安房郡鋸南町)
【11:30】妙本寺は日蓮宗の安房古刹であると同時に、「天分の内乱」決戦地、かつ北条が度々上陸戦を繰り返した要地。一級史料も数多く残る、里見ファン&北条ファンの穴場。住職日我は、里見義堯のひとつ違いの朋友であり、ブレーンでもあった。背後の丘陵には里見実堯が「眼代」に任じられた妙本寺要害があるが、きちんとした見学路が無いため、今回はパス。
【12:00】勝山城は天然の良港・勝山湊を見下ろす典型的海城。大黒山にはあやしい天守風の展望台があるが、勝山城そのものは勝山港を挟んだ南岸の八幡山にある。沖1kmの浮島は、房州逆乱の際に妙本寺の日我が難を逃れた場所でもある。左は鋸山からの遠望、右は勝山城から対岸を見つめる青岳尼。あやしい展望台はパス。
【12:40】猟島(龍島)は頼朝が石橋山合戦に逃れて房総へ落ち延びて上陸した記念の地。ここから上総広常や千葉常胤の援軍を得て、怒涛の勢いで平家政権打倒と武家政権樹立へ、歴史が大きく舵を切る。碧い海の向こうに、武家政権前夜の胎動が聞こえるか?

波と戯れる乙女(!)たち。頼むから落っこちないでね(^^;)

頼朝上陸の地、龍島からの景色。さきほど登った鋸山が雄雄しく、美しく横たわる。大黒山のあやしい展望台を撮影する鷹取大将(自称「やぐら屋さん」)もなかなか「らしく」てイイですね!冬の晴れた朝などは富士山も見えるという。

■岡本城・聖山--->光巌寺--->興禅寺(千葉県安房郡富浦町)
【13:40】岡本城は義頼の時代の本拠。遺構は点在するが、「里見公園」の荒れ放題ぶり(上左)には閉口。しかし、仕方ないのでここで昼食。ソレガシが間違えて道に迷ったのがかえって幸いし、梅王丸幽閉の地「聖山」(上中)に行けたのが思わぬ大成果。堀切の規模の大きさや珍しい丘陵上の水堀遺構「桝ヶ池」(上右)などの遺構、主郭物見からの景色などは素晴らしいのだが・・・。

 

【15:00】光巌寺は里見義頼の菩提寺。里見義頼は梅王丸との家督対立に勝ち残り、「正木憲時の乱」も平定して大多喜正木領を里見氏直轄に収めるなど、戦国大名としての力量は随一であった。里見義弘の弟とも、庶子とも伝わるがその出自はわからない。ソレガシは、青岳尼の子ではないか、と考えているがいかがなものだろうか?

【15:10】そしていよいよ興禅寺、青岳尼の供養塔へ。延宝三(1675)年に百回忌にあたって建立されたもの。戒名「智光院殿」の文字が刻まれている。

祈り、そして語りかける人々・・・青岳尼よ、とうとう会いに来ましたぞ。

■館山城--->采女井戸--->慈恩院・鹿島堀・泉慶院・大膳山(千葉県館山市)

【16:00】館山城は里見ファンの聖地であると同時に、戦国大名里見氏終焉の地でもある。徳川幕府に難癖をつけられた里見忠義は配流同然で伯耆倉吉へ移り、彼の地で没した。二十九歳だったという。

暮れかけた青空に模擬天守が映える。残念ながら時刻が遅くて中には入れなかった。鏡ヶ浦を望む景色も最高。

南側の堀切、切岸などの城郭遺構や「八遺臣の墓」を眺めつつ、家臣・印東采女の屋敷跡という「采女井戸」で水を頂く人々(上左)。さらに慈恩院では、小田原の役参加にもかかわらず上総を没収された悲運の将、義康の墓を参詣。夕照に輝いていた(上中)。羽柴の姓を許され、「羽柴安房侍従」とも呼ばれたが、父祖の血と汗が染み付いた上総を失った里見氏にとって、「羽柴姓」など噴飯ものであったのではないか・・・。わずかに残った惣構えの堀、鹿島堀(上右)は里見義康が「関ヶ原」の戦功で鹿島三万石を加増され、その領民たちが普請を行ったという。

鹿島堀の水堀に望む泉慶院は青岳尼開基と伝わる。ここにも文政二(1819)年建立の供養塔がある。法名「智光院殿」の文字に感動。御台殿の購入したお線香を手向け、ふたたび祈りを捧げる。
大膳山。「正木憲時の乱」で里見義頼は大多喜正木氏領を事実上併呑、弟・時堯にその名跡を嗣がせて二代目時茂(大膳亮)と名乗らせたという。ここはその屋敷地という。
■宿所(千葉県勝浦市)

【19:20】宿所は一気に北上して勝浦の鵜原へ。食べきれないほどの料理とビールで乾杯!実は少将殿、いや、作家・伊東潤殿のデビュー作「戦国関東血風録・北条氏照修羅往道」出版記念パーティも兼ねている。御台殿より記念品の贈呈。
こうして一日目の夜は更けていった。 
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