長狭地方の要の城郭

金山城

かなやまじょう Kanayama-Jo

別名:

千葉県鴨川市打墨

(金山ダム脇)

城の種別 山城

築城時期

不明

築城者

不明(長狭氏?)

主要城主

長狭氏、東条氏、正木氏

遺構

曲輪、土塁、虎口、石積み、井戸

岩盤を掘削した枡形虎口<<2003年09月23日>>

歴史

天正八(1580)年六月に大多喜城主・正木憲時が里見義頼に対して反乱を起こした「正木憲時の乱」で攻め落とされたのが史料上の唯一の所見というが、長く正木氏の属城として、長狭郡の支配拠点となっていたとみられる。

治承四(1180)年、石橋山合戦で敗れて安房に渡った源頼朝を貝渚で襲撃した長狭六郎常伴が金山城主であったというが不明。また、文安二(1445)年六月、里見義実が安西景春を降ろした後、金山城に立て籠もる東条左衛門常政(秋重、重永)を攻めて落城させ、常政は討ち死にし、里見義実は安房の統一を完成させたという。

天文年間には正木氏の属城となり、金山城には勝浦城主・正木時忠の弟、弘季が在城したという。天正八(1580)年、正木憲時と里見義頼の抗争(正木憲時の乱)では、憲時は金山城に弟の正木石見守道俊を守らせていた。里見義頼は勝浦城主・正木左近大夫頼忠を先鋒に東安房へ侵攻、葛ヶ崎城を落とし、金山城も攻め落として、正木道俊を興津城に追った。正木憲時は天正九(1581)年九月二十九日、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定された。金山城はこの頃廃城になったと考えられる。

金山城は確実な史料に現れるのは「正木憲時の乱」だけということですが、古くは「治承の乱」で安房に逃れた源頼朝を襲撃した長狭六郎伝説、また戦国前夜の里見義実による安房統一伝説、さらには里見氏の内訌「天分の内乱」時に正木時茂が在城した云々など、安房の歴史と伝説にたびたび登場するお城です。それだけ重要なお城であったのでしょう。天文から天正にかけての戦国中・後期には正木氏の支配下に入っていたものと思われ、長狭地方を支配する正木氏の拠点的な城郭であったと考えられます。ただ、位置的には長狭地方の主要幹線街道である長狭街道には直接面しておらず、むしろ現在「鴨川有料道路」になっている亀山方面、ひいては里見氏の支配の中心である久留里城大多喜城方面への交通を重視した占地といえるでしょう。

金山城の位置は現在の金山ダムの右岸にあり、ダム湖の出現によって風景も当時とはかなり異なっています。このダム湖の中には、里見義実に攻め滅ぼされた東条常政の郎党が身を投げたという「長九郎滝」「長狭九郎滝」があったそうですが、現在は水没してしまいました。余談ですがこの金山ダム、「アース式ダム」という土のダムで、まるで巨大な土塁のようです。この堰堤の右岸の山が金山城なのですが、こちら側からでは行けません。また、ダム湖にかかる赤い釣り橋に金山城の解説板が、また金山有料からダムへの分岐路の、最初のトンネル入り口にも石碑がありますが、これだけではどれが金山城なのかわかりません。この石碑のあるトンネル入り口の左側に細い道があり、その道なりに進んでいくと山間の小さな集落(かつての根古屋集落)が現れます。この道がつながっている背後の山が目指す金山城です。道は一応舗装されていますが、かなり荒れているので車は無理せずどこかの空き地に置いて歩いたほうがいいでしょう。途中にはかすれて読めなくなってしまった標柱などもあります。

さて遺構ですが、山道を登り詰めると一面ススキに覆われた広大な平場に出ます。これは従来、金山ダム建設時の土採りによるものと見られてきましたが、いつもお世話になっている左衛門尉殿の聞き取り調査によると、ダム建設前の昭和二十年代頃にはすでに現状に近い地形だったようで、だとすれば曲輪として使われていたことも想定されるのですが、お城の規模に対してあまりにも広大すぎて、一体何のために?と思わないでもありません。この奥に進んでいくと、この地方お決まりの痩せ尾根地形に達し、ここには数段の削平地や尾根の削り残しと見られる土塁などがあり、頂上の狭い削平地には何やらの祠があります。この狭い範囲が金山城の中枢部と考えられます。さらに尾根を北側に伝っていけば堀切や土橋状遺構もあるらしいのですが、ちょっと進むのが躊躇われる地形でしたので引き返してしまいました。

しかし、最も技巧的な遺構は道無き道を分け入った、ダム湖に面した東側にあります。ここには岩盤を掘削・整形した巨大な切通し虎口があり、石積み遺構も伴っています。この枡形状の虎口はさらに九十度折れ曲がってもうひとつの枡形に向かう堅固な構造で、ダムに水没したこの方面に大手道があったものと想像します。さらにここから戻る途中、崖のような塁壁の下に石積みの井戸を発見。これは井戸というよりも湧水の貯水施設ですが、石積みが綺麗に残り、わずかながら岩盤から水が湧き出していました。これは現在発行されている金山城の縄張り図等には載っていません。この井戸も虎口も、前述の広い削平地からはススキの藪が酷くて行けないので、塁壁の下、ほとんど崖のような場所を歩かなくてはいけません。そのため、ちょっとばかり危険ではあります。なるべく一人では行かないようにしましょう。

金山ダムへと向かう道の、トンネル入口脇に建つ城址碑。これだけ見るとこの山がそうかと思ってしまいますが、この左手奥の山が金山城です。 アースダムという、土塁のような土のダムと金山城。このダムの建設によって地形がだいぶ変わったといいますが・・・。
ダム湖から見る金山城。この湖の下には、東条常政の郎党が身を投げたという二つの滝が水没しています。 これがくだんのやたらと広い曲輪(?)。土採りによる改変とされてきましたが、ソレガシの大先生、左衛門尉殿によれば、かなり以前からこんな地形だったとか。一体何のために・・・?
北西に伸びる尾根上に取り付いてみると、早速腰曲輪風の削平地が現れました。 二段の曲輪には、北側斜面に向かって削り残しの尾根土塁があります。いずれもそれほど高いものではありません。
一応城内最高所、主郭とみられる場所。小さな祠にはきちんとお供えがしてありました。周囲の囲いは土塁でしょうか。ここから先は痩せ尾根が北西に向かって急角度で降りていきます(行っていません)。 主郭附近からの景色。手前方向に伸びる加茂川有料道路、遠く東西に伸びる長狭街道などが見えますが、「支配の要」の割には大して見晴らしは利きません。なぜこんな引っ込んだ場所に築城するのだろう・・・?
これが例の岩盤掘削虎口、急角度の塁壁から見上げたところ。最後はここをよじ登るしかないのです。 おお、スゴイ!この岩盤掘削技術、さすがは里見・正木系城郭だ!非常に大迫力なのですが、写真で見るとそうでもないですね・・・。
この岩盤掘削虎口の奥にある石積み遺構。これも里見・正木氏系城郭ではよく見られるものですね。 この岩盤虎口は西へ90度折れて、さらに大型の枡形に向かいます。こちらは石積み等は無いようです。
崖のような塁壁の下に湧き出る石積みの井戸発見!岩の隙間からの湧水を貯める、池と言った方が適切かもしれません。 なにやらパンパン音がすると思いきや、足元に薬莢が・・・!洒落にならん、撤収!Don't Shoot!

 

 

交通アクセス

館山自動車道「木更津南」ICより車60分。

JR外房線・内房線「安房鴨川」駅徒歩60分。

周辺地情報

長狭街道沿いの山之城城など。頼朝の古戦場伝説がある「一戦場」は現在、「一戦場スポーツ公園」になっています。仁右衛門島も頼朝伝説の地です。

関連サイト

 

 
参考文献等

「すべてわかる戦国大名里見氏の歴史」 ( 川名 登 編/図書刊行会)

「図説房総の城郭」(千葉城郭研究会/国書刊行会

「中世城館調査報告書」(千葉県天津小湊町、遠山成一氏稿)

「房総の古城址めぐり(上)」( 府馬清/有峰書店新社)

「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)

「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

 

情報提供:遠山成一様

参考サイト

余湖くんのホームページ

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