金山城は確実な史料に現れるのは「正木憲時の乱」だけということですが、古くは「治承の乱」で安房に逃れた源頼朝を襲撃した長狭六郎伝説、また戦国前夜の里見義実による安房統一伝説、さらには里見氏の内訌「天分の内乱」時に正木時茂が在城した云々など、安房の歴史と伝説にたびたび登場するお城です。それだけ重要なお城であったのでしょう。天文から天正にかけての戦国中・後期には正木氏の支配下に入っていたものと思われ、長狭地方を支配する正木氏の拠点的な城郭であったと考えられます。ただ、位置的には長狭地方の主要幹線街道である長狭街道には直接面しておらず、むしろ現在「鴨川有料道路」になっている亀山方面、ひいては里見氏の支配の中心である久留里城や大多喜城方面への交通を重視した占地といえるでしょう。
金山城の位置は現在の金山ダムの右岸にあり、ダム湖の出現によって風景も当時とはかなり異なっています。このダム湖の中には、里見義実に攻め滅ぼされた東条常政の郎党が身を投げたという「長九郎滝」「長狭九郎滝」があったそうですが、現在は水没してしまいました。余談ですがこの金山ダム、「アース式ダム」という土のダムで、まるで巨大な土塁のようです。この堰堤の右岸の山が金山城なのですが、こちら側からでは行けません。また、ダム湖にかかる赤い釣り橋に金山城の解説板が、また金山有料からダムへの分岐路の、最初のトンネル入り口にも石碑がありますが、これだけではどれが金山城なのかわかりません。この石碑のあるトンネル入り口の左側に細い道があり、その道なりに進んでいくと山間の小さな集落(かつての根古屋集落)が現れます。この道がつながっている背後の山が目指す金山城です。道は一応舗装されていますが、かなり荒れているので車は無理せずどこかの空き地に置いて歩いたほうがいいでしょう。途中にはかすれて読めなくなってしまった標柱などもあります。
さて遺構ですが、山道を登り詰めると一面ススキに覆われた広大な平場に出ます。これは従来、金山ダム建設時の土採りによるものと見られてきましたが、いつもお世話になっている左衛門尉殿の聞き取り調査によると、ダム建設前の昭和二十年代頃にはすでに現状に近い地形だったようで、だとすれば曲輪として使われていたことも想定されるのですが、お城の規模に対してあまりにも広大すぎて、一体何のために?と思わないでもありません。この奥に進んでいくと、この地方お決まりの痩せ尾根地形に達し、ここには数段の削平地や尾根の削り残しと見られる土塁などがあり、頂上の狭い削平地には何やらの祠があります。この狭い範囲が金山城の中枢部と考えられます。さらに尾根を北側に伝っていけば堀切や土橋状遺構もあるらしいのですが、ちょっと進むのが躊躇われる地形でしたので引き返してしまいました。
しかし、最も技巧的な遺構は道無き道を分け入った、ダム湖に面した東側にあります。ここには岩盤を掘削・整形した巨大な切通し虎口があり、石積み遺構も伴っています。この枡形状の虎口はさらに九十度折れ曲がってもうひとつの枡形に向かう堅固な構造で、ダムに水没したこの方面に大手道があったものと想像します。さらにここから戻る途中、崖のような塁壁の下に石積みの井戸を発見。これは井戸というよりも湧水の貯水施設ですが、石積みが綺麗に残り、わずかながら岩盤から水が湧き出していました。これは現在発行されている金山城の縄張り図等には載っていません。この井戸も虎口も、前述の広い削平地からはススキの藪が酷くて行けないので、塁壁の下、ほとんど崖のような場所を歩かなくてはいけません。そのため、ちょっとばかり危険ではあります。なるべく一人では行かないようにしましょう。