海の向こうから早雲が攻めてきた

真名城

まんなじょう Manna-Jo

別名:三上城

千葉県茂原市真名

 

城の種別

山城

築城時期

南北朝初期?  

築城者

三上佐々木氏

主要城主

三上佐々木氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、切通し

「御館谷」方面から見た遠景<<2002年03月09日>>

歴史

築城時期は不明だが、南北朝期初期に、足利尊氏により上総畔蒜庄を与えられた近江の佐々木道誉の一族が土着して三上氏を名乗り、この地に居住したと言われる。

永正十三(1516)年、三上氏は扇谷上杉氏の求めに応じ、古河公方足利高基派の千葉氏家臣の原氏らが籠る亥鼻城を攻撃した。

そのころ、上総中央部の真里谷城庁南城を本拠にしていた上総武田氏は養老川上〜中流域の畔蒜庄から、上総・下総国境の市原郡方面へ進出し、下総側国境の小弓城の原氏、真名城の三上但馬守らと対立、真里谷城主武田信保(入道恕鑑)は苦戦していたが、永正十四(1517)年、真里谷城の武田信保(入道恕鑑)の求めに応じ北条早雲が援軍を派遣、三上氏の籠る真名城を攻撃し落城させた。早雲は藻原寺に制札を出し、所領千貫分を獲得し、子の菊寿丸(箱根別当長綱幻庵)に与えている。前後して小弓城も陥落し、小弓城に足利義明を招聘し「小弓公方」を称した。真名城の廃城の時期、三上氏のその後等、詳細は不明。

茂原市から長柄町にかけての丘陵が連続する地形のなかに、豊田川流域のごく狭い平場が広がります。この平地と「茂原街道」を南に見下ろす地にあったのがこの真名城です。近くの丘は「真名CC」になっていて、「もしかして破壊されたかも」とちょっと不安でしたが、幸いにも真名城周辺はあまり開発の手も入らず、遺構は比較的良く残ります。

地元の人に聞いても登り方がわからず、結局藪こぎをしながら支峰を直登することになりましたが、頂上に着いたら山の反対側斜面にちゃんと道があって拍子抜けしました。基本的に整備されていないので、藪が多く遺構の一つ一つを明瞭に確認するのは困難ですが、それでも所々に堀切、尾根を削り残した土塁、多数の腰曲輪、削崖、切通しなどが見られます。各支峰や周囲の小丘陵にも堀切・削崖・削平地などなどが見られるようで、実はなかなか規模の大きい城だったようです。城主の三上氏は「バサラ」で有名な佐々木道誉に繋がる佐々木氏の系統で、道誉が足利尊氏からこの上総に所領を受けたことから土着したのだそうです。のちに扇谷上杉氏に呼応して、古河公方足利高基派の千葉氏家臣団の原氏らが籠る亥鼻城を襲撃したりしています。

ここを訪れようと思ったのは、あの北条早雲が晩年に出兵した地だったから。このころ早雲は三浦半島の新井城に籠る三浦義同(入道道寸)を滅ぼし、相模一国をほぼ平定します。これにより、相模を領国とする扇谷上杉氏と対立することになりますが、あくまで真名城への出兵は政治的な意図は薄く、当時友好関係にあった真里谷武田氏からの出兵要求に応えたものらしいです。ただ、古河公方家の足利政氏・高基の争いや小弓公方・足利義明の台頭などによって、この時代の房総半島の情勢は非常に混沌としていて、頭を整理しないと「誰と誰が何故争っているのか」わからなくなりそうです。

この合戦で早雲は上総藻原に進出し、藻原寺に制札を出し、所領千貫分を獲得し、後に子の菊寿丸(長綱幻庵)に与えています。その直後には氏綱の制札も見られるそうです。ですが、伝承されている早雲の年齢では(87歳か!?)、早雲本人が参陣とは考えられないので、あくまで名代として、嫡子・氏綱あたりが出兵したものでしょう。この真名の地は内房よりも外房に近く、当時はまだ北条氏の政治力がここまで影響していたとは考えられないことから、後の北条氏の下総・上総への侵出とは別の事態として、切り離して考えたほうが良さそうです。早雲がどうやってこの地に軍を進めたのかも興味がありますが、いくら早雲でも、房総半島の内陸深くに侵攻するためには、誰かの手引きがないと不可能でしょう。おそらく北条軍は、真里谷武田氏の求めに応じて椎津姉崎湊あたりに進出し、武田氏の案内で池和田方面から陸路向かったのではないでしょうか?早雲の手にした所領もその後どうなったのかわかりませんが、おそらく上総酒井氏や武田氏、里見氏、原氏らによって簒奪され、ウヤムヤになっていったのではないでしょうか?

ところで、地図を片手にうろうろしてると、ご近所の方から、「あんた、圏央道関係の人かね?」と声を掛けられました。もしかして圏央道はこのあたりを通るのでしょうか?だとしても、なるべくこの自然が一杯の丘陵地帯と、真名城の遺構は残して欲しいですね。茂原市、先回りして史跡指定しちゃえ!

真名城南方のもと安養寺の廃寺跡に建てられた集会所の裏山から登る。切通しや腰曲輪、写真のような堀切が連続します。

南側最大と思われる堀切。このあたりの支峰上には櫓台風の小規模な削平地が連続します。が、主郭方面への通路がなく一旦下山しました。

「元宿」にある規模の大きな削崖。このあたりは農地化に伴う改変も激しいので遺構かどうかは必ずしも明瞭ではありません。

元宿付近から藪こぎしながら支峰を登ると、山上は比較的広い曲輪でした。竪堀があります。単なる土砂崩れかとも思いましたが、一応横矢が掛かっているので堀と判断。

主郭は大まかに二段に削平されていて、八幡社が祭られています。周囲に土塁等はなく、他の曲輪との堀切等もありません。

主郭虎口は屈曲した急斜面の坂入虎口で、苔生した石段の道です。

近世二ノ丸にあたると思われる「小詰」。城内で最も広い曲輪です。

おなじみ切通し虎口。ふたつの切通しが枡形をかたどっていました。

これもおなじみ、切通しそばにあったヤグラ(横穴墓)と思われる穴(真偽不明)。この周囲も切り立った削崖になっていて、上総・安房に多く見られる城郭の特色を見ることができます。

切通し虎口前を守る曲輪。近世で言えば三ノ丸にあたる曲輪か。

周囲の丘陵地帯にも、出城や砦が多く築かれていたようで、マイナー城郭ながら、往時はなかなかの規模だったようです。ただ、冬でも結構鬱蒼とした森林と藪なので、ここは夏はまず無理じゃないかなあ?

 

 

交通アクセス

千葉外房有料道路「茂原」ICから車15分。

周辺地情報

まだ見ていませんが本納城は見所が多いようです。土気城大椎城もわりと近いです。

関連サイト

 

 

参考文献

「長生の城」(小高春雄)、「新編房総戦国史」(千野原靖方/崙書房)、「国府台合戦を点検する」(千野原靖方/崙書房)

参考サイト

余湖くんのホームページ

 

 

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