智将・直江兼続の居城

与板城

よいたじょう Yoita-Jo

別名:

新潟県長岡市与板町与板

城の種別

中世山城

築城時期

天正年間(1573-92)初期

築城者

直江景綱(?)

主要城主

直江氏

遺構

曲輪、堀切、土塁、井戸跡 他

実城の大堀切<<2001年08月17日>>

 

もともとは北方2kmの本与板城に守護・上杉氏家臣の飯沼氏が居城していたが、守護・上杉房能と守護代・長尾為景の対立の際に飯沼頼清は上杉氏に与し、永正十一(1514)年に敗れて没落、替わって長尾氏重臣の直江氏が入城した。 

直江与兵衛尉実綱は、為景の代から長尾家に仕え、天文五(1536)年八月に為景は嫡子・晴景に家督を譲ると、晴景に仕えた。しかし晴景の器量不足を不満とする家臣・国人領主たちが晴景の弟で栃尾城に 派遣されていた景虎(のちの上杉謙信)を擁立すると、実綱もこれに加わった。この内紛を憂いた守護 ・上杉定実が両者を調停し、天文十七(1548)年、景虎は晴景の養子となって守護代長尾家を嗣ぐ事と なり、栃尾城から春日山城に移った。実綱は謙信の譜代家臣中でも筆頭級の重きを為し、「旗本之者共 」にも数えられ、所領安堵などの内政や外交、軍事などで活躍した。永禄二(1559)年の謙信の上洛で は外交使節の神余親綱を助け、またよく永禄三(1560)年、関白・近衛前嗣が越後に下向した際には接待役に任じら れた。また謙信の関東出陣に際しては、春日山城の留守居役を任じられた。永禄四(1561)年の第四次川中島合戦では小荷駄を率いて参戦し、武田信玄嫡男・太郎義信の一隊に攻めかかり、これを敗走させた。永禄十二(1569)年の越相和睦の際は小田原城からの使節との交渉役を担当した。実綱は永禄年間に謙信より「景」 の字を与えられ大和守景綱と名乗りを変えた。 天正年間に与板城を築いて本与板城から移転したといわれるが、その時期は諸説あってはっきりしない。 実綱の死後は嫡男(養子とも)の信綱が与板城を嗣いだ。 

天正六(1578)年三月、謙信は春日山城内で急死し、上田長尾氏出身の景勝と、小田原北条氏から養子に入った三郎景虎が家督をめぐって対立した(御館の乱)。この乱では景綱未亡人が謙信の枕頭で「跡目は景勝」との遺言を受けたと主張し、景勝方の大義名分となった。景勝派はこれを口実に春日山城の本丸を占拠、三郎景虎に鉄砲を撃ちかけ、三郎景虎は御館に入城した。直江信綱は景勝に味方し、上杉景勝の天正六(1578)年五月十日の書状では高梨外記、直江式部、今井源右衛門らが与板城で昼夜粉骨していることを賞している。また同日の赤田城主・斎藤下野守朝信の書状により、栃尾城主の本庄清七郎が与板城を攻撃したが失敗したことがわかる。直江信綱は五月十一日に家臣の本村新助に与板城での戦功を賞する感状を発給している。景勝はその後も黒滝城代の山岸宮内少輔、山岸隼人佐らに対し、黒滝城、赤田城などが連携して栃尾城に対して用心するよう命じている。三郎景虎は天正七(1579)年三月に御館を脱出、堀江宗親を 頼り鮫ヶ尾城に逃れたが、堀江の寝返りにより三月二十四日、鮫ヶ尾城で自刃した。

直江信綱は乱の後の恩賞問題での毛利秀広と山崎秀仙の争いに巻き込まれ斬殺された。乱に勝利した景勝は直江家の名跡を惜しみ、小姓あがりで乱の際に軍功があった樋口与六に与板城と直江家の名跡を与え、与六は直江兼続を名乗った。

兼続は天正九(1581)年に勃発した新発田城新発田重家の叛乱や出羽・佐渡の平定に従軍した。 天正十四(1586)年に景勝は兼続を伴って上洛し、豊臣秀吉と対面、のちに景勝が五大老として豊臣家の重臣の位置につくと、兼続も従五位下・山城守に任じられた。 慶長三(1598)年、景勝の会津移封に伴い兼続は米沢三十万石を与えられ移封、与板城は廃城となった。

石田三成の盟友として、また上杉景勝の股肱の臣として、史上に名高い直江山城守兼続の城です。兼続はもともと樋口与六といって、景勝の父・政景の重臣・樋口兼豊の子として坂戸城下に生まれ、謙信、景勝の小姓となりましたが、その才を認められて、謙信にとって股肱の臣であった直江家の名跡を嗣いでこの与板城に入りました。大和守景綱(実綱)の時代までとされる本与板城とは2kmほどの距離にあります。ちなみに与板の街中には、江戸期に井伊氏が陣屋を構えた「与板陣屋」もあって、この与板には都合3つの与板城が存在したことになります。

 御館の乱後の恩賞のもつれから直江信綱が刃傷事件の巻き添えを食らって亡くなり、直江家の断絶を惜しんだ景勝により、上田衆・樋口兼豊の子、兼続を信綱未亡人「おせん」と娶せたことで兼続は直江氏を嗣ぐこととなります。兼続という人、その才覚はよく知られていて、御館の乱や新発田重家の乱での活躍、朝鮮の役での文武両面の活躍、さらには米沢へ移封後の関ヶ原合戦に呼応した長谷堂城での最上軍との激戦は有名です。もっとも有名なエピソードとしては、関ヶ原前夜の家康に対する挑戦状、「直江状」でしょうか。これは史実であるかどうかは分かりませんが、会津討伐を狙う家康を徹底的に愚弄する書状で、家康が読んで「わしは今まで、これほど無礼な書状を受け取ったことは無い」と呆然とするほどの内容であったとか。その他にも殿中で伊達政宗とすれ違った際に挨拶しないのを咎められ、「いや伊達殿でございましたか。戦場ではいつも後姿ばかり拝見しておりましたので気づきませんでした」と言ったとか、伊達政宗が持ってきた小判に手を触れず、「遠慮なく手にとって見られよ」と進める政宗に「上杉の軍配を任されておるこの手でかような不浄なものに触れるわけには参らぬ」と、扇子の上でポンポン弄んだ後に政宗の膝元に投げ返したとか、どこまでほんとかは分かりませんがいろんなエピソードをもつ人です。太閤秀吉の覚えもめでたく、景勝が会津に移封された際には、わざわざ別して直江山城守充てに米沢三十万石を与えられています。三十万石といえば、通常であれば陪臣の身である兼続が領することは考えられない大封で、秀吉のこの人に対する信頼というか、期待のようなものが感じられます。関ヶ原後は上杉氏は会津領を召し上げられ米沢三十万石に減封されてしまいますので、結果的に上杉氏は、直江兼続に「食わせてもらう」ことになってしまいます。文の道にも優れ、「春雁似吾々似雁 洛陽城裏背花帰」の漢詩は有名です。ただ、ファンには申し訳ないのですが、個人的にはどうも可愛げのない人、という印象も拭えません。 それに長谷堂城の合戦だって結果的には負けているし、何より関ヶ原の敗報を入手したのが九月二十九日、合戦後十四日も経ってからというのがどうにも情けない。ホントに兼続って名将なのかね?

 

与板城平面図

※クリックすると拡大します

その与板城は技巧面でこそ目を引く部分はありませんが、尾根上に点々と堀切と腰曲輪を設け、規模の大きい山城です。兼続本人は越後時代はほとんど景勝の側に侍っていたはずなので、ほとんどこの与板城に来ることはなかったでしょう。実質的には直江氏の、というよりも上杉直営の番城と見たほうがよさそうです。御館の乱においては激しい実戦も経験しており、そんなこともあってこの地方随一の規模に発展したものでしょう。主郭部分は神社になっていて、道も整備されているため比較的登りやすくなっています。この神社から尾根上を歩くと、いかにも戦国期の山城であることを感じさせるような堀切が連続して、目を楽しませてくれます。尾根上は比較的緩やかで山城らしい荒々しさはあまりありませんが、その分歩きやすく、見学しやすい城であると思います。本来は信濃川の水運とも深くかかわりのある城であったのですが、現在は河道はやや離れています。主郭付近からの眺望は木で遮られほとんど無いのが残念でした。「のろし山」は千人溜から400mほど林道を南に進んだ場所にあり、小規模ながらも遺構を残しているのには驚きました。ホントに狼煙台だったかも、と思わせるものがあります。

なお八坂神社入り口に駐車場の案内がありますので、ちょっと離れていますが車はその案内に従って停めましょう。

[2007.01.20]

城下の八坂神社から登山道が伸びており、簡単な案内板があります。最初だけ急坂ですが、登り切ると意外になだらかな道が続きます。 尾根を登りきったあたりはすでに城域の中です。登山道脇に堀切14が見えます。

八坂神社から主郭への尾根道は大手道でしょう。ここには比較的まとまった規模の曲輪が連続します。 八坂神社から主郭へ向う道にある「おせん清水」。おせんとは大和守景綱の娘、信綱未亡人で、のちに兼続の後妻となる人物です。

主郭の前面に横たわる腰曲輪。木々の間から信濃川の川面がのぞいていました。主郭の法面は数年前の豪雨で崩れたらしいですが現在は修復されているようです。 城山稲荷神社が祀られる実城T(主郭)。兼続の「望むところのこと信の一字」の碑と、海音寺潮五郎の 「直江山城守旧城跡本丸」の碑があります。

兼続が会津移封にあたり記念植樹した杉五本のうちの一本といわれる「城の一本杉」。落雷でも遭ったのか、幹が大きく裂けて倒れる寸前でしたが・・・・。 稲荷神社の背後には大きな土塁があります。

土塁の背後には短い支尾根の付け根を断ち切る堀2があります。北側の尾根にも堀切が1条ありますが、あまり手は入れられていません。 簡易トイレが置かれているX曲輪。こちらの方向にも支尾根があり、堀切で先端附近を分断しています。

実城から南西に続く尾根を断ち切る大堀切3。ここから先の尾根筋にはたくさんの堀切が見られますが、実城のものが最大規模です。 U曲輪は「二ノ丸」とされ、実城寄りに土塁があります。

二郭と三郭を隔てる堀切4。規模は小さく深さは2mほど。この主尾根には堀切が沢山現れます。 V曲輪は尾根が3方向に分岐する防衛上の要所です。

V曲輪南側の堀切5は規模が大きい。堀底を通って東の支尾根へと向かう通路も兼ねているようです。 堀5を通って東側の支尾根に向かうと山腹に畝状阻塞らしきものが。この城にもあったか!

この支尾根はさらに尾根が分岐していて地形が複雑です。写真は堀8。 さらに堀9。支尾根が連続し、その都度付け根を断ち切っています。が、防御上は効率の悪そうな場所です。

主尾根上の堀6。この尾根筋には大小さまざまな堀切が連続して現れ、中世山城ファンを喜ばせてくれます。 千人溜と城域中核部の間の鞍部は「大堀」の地名がありますが基本的に自然地形です。ただし池があったのでは、と思われる地形も見られます。

千人溜と呼ばれる広い平場。城郭遺構ではないという説(「日本城郭大系」)もありますが、戦時の領民の避難場所だったという説(「図説中世の越後」)もあります。 千人溜は窪地状の地形になっており、両側から抱え込むように伸びる尾根が天然の土塁として機能しています。

千人溜背後の林道を400mほど進んだ場所に「のろし山」があります。遺構は期待していませんでしたが・・・。 一応小規模な堀切、削平地、切岸地形などがあり、案外「のろし山」というのも本当ではないかと思えます。

 

交通アクセス

関越自動車道「中之島見附」IC車20分。

JR上越線・信越本線「長岡」駅または「見附」駅よりバス。

周辺地情報

古い与板城である本与板城がすぐ近く。城下には江戸期の与板陣屋跡があり、門が現存しています。

関連サイト

  

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信・戦国最強武将破竹の戦略」(学研「戦国群像シリーズ」)

「疾風 上杉謙信」(学研「戦国群像シリーズ」)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「正伝 直江兼続」(渡邊三省/恒文社)

「直江兼続のすべて」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉家御書集成U」(上越市史中世史部会)

「上杉家御年譜 第二巻」(米沢温故会」) 

現地解説板

参考サイト

家紋WORLD 

 

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