上杉謙信の右腕であった直江実綱、のちに謙信より一字を貰って景綱。直江氏については謙信の政権下で軍事のみならず内政、外交などにも重要な役割を担っており、ある意味でその存在感は上杉家中でも筆頭といってもいいものだったでしょう。その直江氏が与板に居城を構えていたことも良く知られています。ところが直江氏が与板に本拠を置くようになった経緯がよくわかりません。もともとこの地域は上杉氏被官の飯沼氏の支配地でしたが、飯沼氏は永正年間の越後国内の戦乱で滅亡し、その後に直江氏が現れます。しかし飯沼氏が滅んだという天正十一(1514)年から、直江実綱がこの地に居を構えたという天文十五(1546)年まではおよそ32年の空白があります。
直江氏そのものも著名な家系ながら系図そのものがよくわかっておらず、その出自も藤原鎌足の末裔とされるだけで詳細は不明、実綱の父、親綱以前は実名すらはっきりしないという謎だらけの一族ではありますが、頚城郡直江荘に本拠を置いたということですから、現在の上越市(旧直江津市)に居住した一族で、謙信が世に出て以後の直江氏の地位を見ても、おそらくは守護・上杉氏ではなく守護代・長尾氏に仕えた一族であったのではないか、と思われます。そして長尾為景の命により与板の地を宛がわれ、飯沼氏の旧跡を手中にしたのでは、と思われます。となると、直江氏がこの本与板城と呼ばれるお城に入ったのは直江実綱の父、親綱の時代あたりではないか、とも推測されます。
本与板城は「もと」の名前の通り、「新・与板城」の前身にあたるお城であるとされます。おそらくその築城時期は与板城よりも古いことは確かなのでしょう。そして新・与板城が築城されたのは直江実綱、信綱から兼続の時代あたりにかけて、とされています。しかしこの本与板城は構造は単純ながらも決して古臭いお城ではなく、なぜわざわざ目と鼻の先に新城を取り立てる必要があったのか、そのあたりも不思議なことではあります。
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本与板城平面図
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本与板城は山城とはいっても比高60mほどの丘陵端にあり、直線連郭を基本とした縄張りを見ても山城というよりは舌状台地上の平山城のような構造をしています。近年の大雨や地震などの影響か、山肌がかなり崩れかかっているのが気になりますが、主要な遺構そのものは残存度が非常に良く、与板城ほど大規模なお城ではないにしても見ごたえでは決して負けていません。この二つのお城を見比べて、立地条件や縄張りの違いなどをあれこれ考えながら楽しむのもいいでしょう。JA三島脇の道の入り口に案内板があり、城域の中腹を走る林道に入るとまもなく登り口が見えてきます。なおJA三島で簡単なパンフレットが貰えますので是非立ち寄ってみてください。主郭は山の先端部のTとされ、石碑大好き派には嬉しいことに、2箇所も城址碑があります。この主郭から主要な曲輪は主尾根上に一直線に並び、曲輪と堀切が交互に現れます。堀3、4は二重堀切になっており、U字型に屈曲しているのが面白いです。W曲輪くらいまで行くとかなり削平も甘く、ここは城外かと思ったら堀5が現れてビックリしました。この西側は緩やかな登りになっており、背後の高所にいかにも曲輪を置きそうな高台がありましたが、こちらは人工的な手を加えられた形跡はありませんでした。
主尾根から南東に伸びる尾根上にも複数の曲輪や堀切があり、とくに堀7、8の東側は崩れていて不明瞭ながらも畝状阻塞であったように思えます。遺構は登り口より下の尾根にもあり、白山神社背後の道祖神のある切通しなどは堀切でしょう。この白山神社も出城と見ていいようで、その証拠に尾根の先に明瞭な堀切14があります。
こうしてみるとなかなか大きい城で、わざわざ与板城を新しく作る必要があったのかどうか、疑問はますます深まるばかり・・・。
[2007.01.20]