ふたつの与板城を考える

本与板城

もとよいたじょう Moto-Yoita-Jo

別名:

 

新潟県長岡市与板町本与板

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

籠沢氏(?)

主要城主

籠沢氏、飯沼氏、直江氏

遺構

土塁、堀、虎口、井戸、畝状阻塞ほか

本与板城本丸跡<<2007年01月04日>>

歴史

南北朝期に新田氏の一族、籠沢(小森沢)入道が築城したと伝わるが詳細は不明。その後、越後守護上杉氏被官の飯沼氏が居城とした。越後永正の乱の際には飯沼定頼が居城としていたが、永正十一(1514)年一月二十六日、長尾為景により飯沼氏は滅亡した。その後、天文十五(1546)年ごろに直江実綱が居城とした。 実綱は永禄年間に謙信より「景」 の字を与えられ大和守景綱と名乗りを変えた。 天正年間に本与板城から南方の与板城を築城したといわれる。 実綱の死後は総社長尾氏から養子に迎えた信綱が直江氏を嗣いだ。その後、御館の乱を経て、樋口与六が直江氏を嗣いで直江兼続と名乗り、慶長三(1598)年、景勝の会津移封に伴い兼続は米沢三十万石を与えられ移封となった。本与板城から与板城への移転の時期は諸説あって定かではなく、また本与板城がいつ頃まで存続していたかも不明。

上杉謙信の右腕であった直江実綱、のちに謙信より一字を貰って景綱。直江氏については謙信の政権下で軍事のみならず内政、外交などにも重要な役割を担っており、ある意味でその存在感は上杉家中でも筆頭といってもいいものだったでしょう。その直江氏が与板に居城を構えていたことも良く知られています。ところが直江氏が与板に本拠を置くようになった経緯がよくわかりません。もともとこの地域は上杉氏被官の飯沼氏の支配地でしたが、飯沼氏は永正年間の越後国内の戦乱で滅亡し、その後に直江氏が現れます。しかし飯沼氏が滅んだという天正十一(1514)年から、直江実綱がこの地に居を構えたという天文十五(1546)年まではおよそ32年の空白があります。

直江氏そのものも著名な家系ながら系図そのものがよくわかっておらず、その出自も藤原鎌足の末裔とされるだけで詳細は不明、実綱の父、親綱以前は実名すらはっきりしないという謎だらけの一族ではありますが、頚城郡直江荘に本拠を置いたということですから、現在の上越市(旧直江津市)に居住した一族で、謙信が世に出て以後の直江氏の地位を見ても、おそらくは守護・上杉氏ではなく守護代・長尾氏に仕えた一族であったのではないか、と思われます。そして長尾為景の命により与板の地を宛がわれ、飯沼氏の旧跡を手中にしたのでは、と思われます。となると、直江氏がこの本与板城と呼ばれるお城に入ったのは直江実綱の父、親綱の時代あたりではないか、とも推測されます。

本与板城は「もと」の名前の通り、「新・与板城」の前身にあたるお城であるとされます。おそらくその築城時期は与板城よりも古いことは確かなのでしょう。そして新・与板城が築城されたのは直江実綱、信綱から兼続の時代あたりにかけて、とされています。しかしこの本与板城は構造は単純ながらも決して古臭いお城ではなく、なぜわざわざ目と鼻の先に新城を取り立てる必要があったのか、そのあたりも不思議なことではあります。

 

本与板城平面図

※クリックすると拡大します

本与板城は山城とはいっても比高60mほどの丘陵端にあり、直線連郭を基本とした縄張りを見ても山城というよりは舌状台地上の平山城のような構造をしています。近年の大雨や地震などの影響か、山肌がかなり崩れかかっているのが気になりますが、主要な遺構そのものは残存度が非常に良く、与板城ほど大規模なお城ではないにしても見ごたえでは決して負けていません。この二つのお城を見比べて、立地条件や縄張りの違いなどをあれこれ考えながら楽しむのもいいでしょう。JA三島脇の道の入り口に案内板があり、城域の中腹を走る林道に入るとまもなく登り口が見えてきます。なおJA三島で簡単なパンフレットが貰えますので是非立ち寄ってみてください。主郭は山の先端部のTとされ、石碑大好き派には嬉しいことに、2箇所も城址碑があります。この主郭から主要な曲輪は主尾根上に一直線に並び、曲輪と堀切が交互に現れます。堀3、4は二重堀切になっており、U字型に屈曲しているのが面白いです。W曲輪くらいまで行くとかなり削平も甘く、ここは城外かと思ったら堀5が現れてビックリしました。この西側は緩やかな登りになっており、背後の高所にいかにも曲輪を置きそうな高台がありましたが、こちらは人工的な手を加えられた形跡はありませんでした。

主尾根から南東に伸びる尾根上にも複数の曲輪や堀切があり、とくに堀7、8の東側は崩れていて不明瞭ながらも畝状阻塞であったように思えます。遺構は登り口より下の尾根にもあり、白山神社背後の道祖神のある切通しなどは堀切でしょう。この白山神社も出城と見ていいようで、その証拠に尾根の先に明瞭な堀切14があります。

こうしてみるとなかなか大きい城で、わざわざ与板城を新しく作る必要があったのかどうか、疑問はますます深まるばかり・・・。

[2007.01.20]

本与板集落背後の比高60mほどの丘陵端が城域。この附近は地形的制約で尾根続きよりも低い山の端に築くしかないようです。JA三島脇の解説板から山側に道があります。 林道を進むと登り口が見えてきます。ここから主郭まで10分とかかりません。この切通しも堀だったかもしれません。
尾根附近まで上がるといきなり主郭脇の堀1が。深さ5m、天幅12m、長さ30mほどあり、思った以上の規模に驚くやら、期待も高まるやら。 主郭には2箇所に城址碑があります。断片的に土塁がありますが、本来は全周していたものと思われます。
主郭東北端の土塁と城址碑。簡単な縄張りを示すイラストもあります。 主郭の先端一段下には小規模な堀切10を隔てて三角形の突角陣地があります。

堀切1の北端附近には湧水を用いた井戸もあります。

こちらはU曲輪、しかし標柱は「一の曲輪」。「本丸」とどう違う?考えようによってはこっちを主郭と見ても良いかもしれません。

U曲輪西端の土塁。U、V曲輪は西側のみコの字の土塁が巡っています。尾根続きからの侵入のみ想定しているかのようです。

U曲輪とV曲輪を隔てる堀2。堀底は平らです。

さらに西側にはV曲輪があります。ここも西側のみに土塁が築かれています。 堀3はU字型に屈曲するちょっと面白い構造。堀3、4で二重堀を形成し、西側に向けて虎口が開口します。
堀4手前の虎口。堀4には土橋も見られます。ここまでを主要な城域と見なして良いのではないかと思います。 Wは削平状態があまり良くないので自然地形と思いましたが、西端に遺構があり城域であることが分かりました。領民の逃げ込み曲輪でしょうか。

W曲輪西側の堀5。こちらも西側に低い土塁が築かれています。

西側の尾根続きは城域よりも標高が高いですが明瞭な遺構はありませんでした。真ん中を通っている道は森林伐採用ではなく古道のようにも思えます。

T曲輪から南へ派生する支尾根にも遺構が見られます。ここは「南曲輪」とされるX曲輪。 Xの先端にも堀7、8の二重堀切が見られます。ちょこっとヤブですが・・・。

そしてビックリ、堀8の東側は畝状阻塞になっていました。さすが越後の城郭!

畝状阻塞は崩れている場所もあり分かりづらいですが、位置といい形状といいまず間違いないでしょう。本与板城には畝状阻塞が存在する!と断言しちゃいましょう。

主郭の直下には日清・日露戦争の戦死者を弔う万才閣跡がありますが、ここも腰曲輪のひとつであったでしょう。

万才閣の先にはさらに堀切10があります。緩い弧を描く堀切は上杉氏系城郭の特徴のひとつです。

登り口まで戻り、さらに尾根続きを下ってみると街道安全祈願の地蔵のある切通しに出ます。ここも堀切(堀12)であるようです。 白山神社の鎮座する小丘も出丸(Y)であるとみていいでしょう。その証拠に・・・。
白山神社のさらに先に大きな堀14がありました。こうしてみると山麓から山頂まで、くまなく遺構があることが分かります。 白山神社から見る信濃川。今は河道は遠く離れていますが、与板の地は信濃川水運ともかかわりの強い場所です。手前は根古屋のあった本与板集落。

 

交通アクセス

北陸自動車道「中之島見附」IC車20分。

 

周辺地情報

ますは与板城はセットで必見。北は夏戸城、南は小木ノ城などもあります。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉謙信と春日山城」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「正伝 直江兼続」(渡邊三省/恒文社)

「直江兼続のすべて」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

現地解説板

参考サイト 家紋WORLD  越後の虎 越後勢の軌跡と史跡

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