信越国境・飯山口「最後の砦」

飯山城

いいやまじょう Iiyama-Jo

別名:

長野県飯山市飯山

(城山公園)

城の種別

平山城

築城時期

永正年間(1504-21)

築城者

泉氏

主要城主

泉氏、高梨氏、上杉氏城代、本多氏ほか

遺構

曲輪、石垣、水堀痕、復元城門ほか

本丸の枡形石垣<<2002年11月08日>>

歴史

築城時期は不明だが、この地方の官牧のひとつである常盤牧一帯を領した泉氏の居城であったという。戦国期には泉氏は鴨ヶ嶽城主の高梨氏の配下となっていた。

高梨政頼は武田氏の北信濃侵攻に抗していたが、弘治三(1558)年には武田軍の攻撃により葛山城が落城、同時期に高梨氏の一族で山田城主山田左京亮に降伏勧告し、山田左京亮は降伏、高梨氏家臣の木嶋城主木嶋出雲守も武田方に転じた。身辺に武田の脅威が迫った高梨政頼は中野小館にわずかな手兵を置いて、自らは縁故のあった泉氏の居城である飯山城に籠城、「援軍がなければ飯山城を武田に明け渡すしかない」として越後の長尾景虎の援軍を強く求めた。景虎は坂戸城主の長尾政景に援軍を命じ、自身も三月二十四日に出陣すると述べている。四月十八日、景虎は信越国境を越え、山田左京亮の山田要害や須田信頼の福島城を攻略、二十一日に善光寺へ着陣し、同日旭山城を再興して武田軍の葛山城と対峙した。しかし武田軍は直接的な戦闘を避け、対陣が続いた。景虎は飯山城に籠る高梨政頼に敵を捕捉できずに残念であると書き送った。その後景虎は武田方の市川藤若の計見城を攻めたが守りが堅かったため、六月十一日に飯山城に撤退し、九月には越後に帰陣した(第三次川中島合戦)。この後、高梨氏の拠点は飯山城に移り、実質的に越後長尾氏の庇護下に入った。

永禄七(1564)年、武田信玄が飛騨に出兵すると、上杉謙信はこれを阻止するために七月二十九日、善光寺平に出陣した。信玄は八月下旬に塩崎城に入り謙信と対陣したが、大きな戦闘は起こらず謙信は十月一日、越後に帰陣した(第五次川中島合戦)。この際に上杉謙信は飯山城を大々的に改修、実城に泉弥七郎を「旧来の如く」置き、桃井伊豆守義孝、加地安芸守春綱らを援軍としておいた。十月二日には城番の岩船藤左兵衛門長忠、堀江駿河守宗親に飯山城周辺の敵の動きを細かく注進するよう命じた。

永禄十一(1568)年七月には武田信玄は本庄繁長の乱に乗じて長沼城を拠点に飯山城とその支城群を攻撃し上蔵城を陥落させた。飯山城には桃井伊豆守、加地安芸守、堀江駿河守らが在城し七月十日の攻防では双方に死傷者が出たが落城に至らなかった。

天正六(1578)年三月十三日、上杉謙信が死去するとその跡目を巡って養子の景勝と三郎景虎が争った(御館の乱)。この乱において飯山城は当初景虎方についていたらしく、景勝方の小森澤政秀に攻撃されている。この後、武田勝頼と景勝の和睦により飯山城は武田氏に割譲されたが、天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると織田信長の武将、森長可の配下となった。六月二日、本能寺の変によって森氏が信濃から撤退すると、飯山城は景勝の配下となり、信濃衆の岩井信能が城代に任ぜられ、地元の外様衆が交代で城番に任ぜられた。天正十一(1581)年九月十六日、上杉景勝は岩井信能に飯山城の普請を命じた。

慶長三(1598)年、上杉景勝が会津へ移封となった後、飯山城は石川光吉、森忠政らが支配し、その後関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山氏らが城主に任ぜられ、享保二(1717)年以後は本多氏が幕末まで世襲した。

慶応四(1868)年四月二十日、旧幕府派の古屋作左兵衛門ら600が飯山城下に侵攻し真宗寺を本陣とした。飯山藩は対応に苦慮するうちに四月二十四日、新政府軍の松代藩兵2000が千曲川東岸に布陣、二十五日に戦闘となり幕府軍は敗走した。この際に飯山城下に放火され、城下の半分を焼失した。

飯山城は、北信濃の豪族・高梨氏の属城であると同時に、越後上杉氏にとって信越国境の最後の関門を守る、非常に重要な「境目の城」であり、文字通り信越国境における「最後の砦」でもありました。もともとは高梨氏家臣の泉氏の居城に過ぎない存在でしたが、高梨政頼が武田の北上によって自らの居城、中野小館鴨ヶ嶽城を放棄、この飯山城を拠点にしたことで本拠地化し、のちに川中島をめぐる争奪戦で越後軍の後詰部隊が駐屯したことにより、信越国境の一大拠点となっていきます。一見、高梨氏の本拠、鴨ヶ嶽城の方が遥かに堅固に見えますが、周辺の市川氏や井上氏、木嶋氏らが武田氏に内応したり一族が分裂したりする中、高梨氏としては中野の本領に留まることの方が危険だったのでしょう。何よりも飯山城の立地は千曲川を経由して越後妻有へ通じ、さらに飯山街道(減税の国道292号に相当)を経由して直接越後府中に通じる交通の要衝でもあったことが大きいでしょう。こうして飯山以北の北信濃は事実上上杉領国に組み込まれるとともに、信濃の国人領主であった高梨氏も次第に上杉氏の家臣団に組み込まれていきます。ちなみにあの有名な直江兼続の母は信濃の泉氏出身とのことですので、おそらくはこの飯山城主であった泉氏のことでしょう。

飯山城そのものは低くてなだらかな丘陵に過ぎませんが、背後に千曲川を控えた要害の地であったことや周辺の支城群の存在などもあって、武田勢も何度も攻撃を仕掛けるもののなかなか突破できない大きな壁であったようです。謙信が川中島に軍を進めた後は、春日山城を守る重要な境目の城であると同時に、春日山城から善光寺平への軍旅の中継点である「繋ぎの城」として、また「糧道の城」としても重要視されており、信濃衆とともに桃井氏、加地氏、堀江氏などの謙信直轄の家臣団も駐屯し防備を固めていました。信玄としても飯山口の要衝を奪取しようと何度か攻撃を加えていますが、支城のいくつかは陥とすことに成功したものの飯山城は抜くことが出来なかったようです。

そんなわけで謙信、信玄の存命中は鉄壁の守りを固めていたわけですが、謙信の死後に勃発した「御館の乱」においては越後勢が内部分裂を起こしていたこともあり、武田勝頼が二万の大軍でやすやすと飯山口を越え、越後の奥深くまで侵攻しています、武田氏滅亡後は織田信長の配下で海津城主となった森長可がやはり国境を越えて侵攻するなど、越後勢の弱体化によって飯山口の防備も危機に立たされますが、こちらは本能寺の変によって命拾いしています。

その立地の重要性と城下町の発展性から近世城郭としても用いられ、戊辰の役を迎えます。小藩であった飯山藩は対応に右往左往し、ニセ官軍に大金を騙し取られる寸前という、今でいう「振り込め詐欺」に引っかかる一歩手前、などという苦笑モノのエピソードもあります。しかし結局官軍と幕府軍の間に挟まれて戦闘に巻き込まれ、城下に放火され大損害を受けてしまいます。このあたりの悲劇的結末は我が越後の北越戦争の激戦地、長岡城の末路と似ている気もします。

飯山城は千曲川左岸の丘陵上に築かれた平山城ですが、現在は市街地の一角に中核部が「城山公園」となって残るのみで、どうも旧状の掴みづらいお城ではあります。おそらくは千曲川を天然の外堀とした堅固な地形であったのでしょうが、現状では比高20mほどの小丘陵に過ぎず、謙信や景勝が総力を挙げて普請した要塞として、あるいは近世城郭としての威厳ある姿は想像するのがちょっと難しい状況です。周囲にはたくさんの在地土豪のお城がありますが、飯山城がその扇の要の役割を成しています。現在は丘陵周囲には宅地や学校関係の施設、市の施設などが立ち並び、主郭は神社になっています。遺構は数段の曲輪と主郭虎口の近世の石垣、周囲の堀の痕跡などごくわずかで、なんとも妙な場所に城門が復元されていたりして、多少物足りない印象は否めません。主郭虎口の石垣枡形が一番の見所。遺構は多くはありませんが、甲越直戦の歴史を辿る上では重要な場所でもあるので、訪れてみる価値は高いでしょう。

[2007.01.21]

千曲川に面した比高20mほどの丘陵に位置する飯山城。「最後の砦」として激しい実戦を経験したお城としては少々貧弱な地形に見えます。 西側の駐車場はもともと水堀であった場所。現在は痕跡のみです。
北側の大手門跡附近。景勝が改修してから大手と搦手が逆になった、とされます。 大手門附近の低地にはなんとなく水堀の名残が感じられます。
近世飯山城の南中門跡には礎石や雨垂れ痕跡が復元展示されています。 飯山城下に移築されていた門を部材から推定復元したもの。実際のところ規模や形状は不明な点が多いのだという。

三ノ丸以下は学校のグラウンドなどになっており面影が乏しい。

二ノ丸。ここから見る本丸の塁壁はさすがに鋭く、石垣の枡形門とあわせて威厳を感じるところです。

本丸枡形の石垣。この城戸の狭さが実に印象的です。近世飯山城の遺構。 その枡形を内側から。この石垣のあたりにわずかに近世城郭としての威厳を残しているかのようです。
本丸には葵神社が鎮座しています。土塁等はありませんでした。 飯山城から千曲川を見下ろす。この立地が飯山城の価値を決定付けていたのでしょう。

 

 

交通アクセス

上信越自動車道「豊田飯山」ICより車10分。

JR飯山線「北飯山」駅より徒歩5分。

周辺地情報

大倉城、仙当城などが見所が多い。なお山城にいく場合はクマ除け対策を忘れずに。

関連サイト

攻城日記の頁、「信濃城攻め紀行」もぜひご覧下さい。

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

「定本 北信濃の城」(小林計一郎・湯本軍一 監修/郷土出版社)

参考サイト

 

 

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