巧久は拙速にしかず

樺野沢城

かばのさわじょう Kabanosawa-Jo

別名:樺沢城

新潟県南魚沼郡塩沢町樺野沢

 

 

城の種別 平山城

築城時期

不明

築城者

栗林氏(?)

主要城主

栗林氏、小田原北条氏

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀、虎口他

樺野沢城主郭<<2004年05月01日>>

歴史

築城時期は不明であるが、坂戸城の支城として上田長尾氏家臣の栗林氏が歴代在城下という。

天正六(1578)年、上杉謙信の死去によって「御館の乱」が勃発、天正六年(1578)七月十二日、上杉景勝は坂戸城将深沢刑部、登坂右衛門尉に対し、荒戸城・直路城の普請が完了したことを喜び、地下人をも集めて在城させるように命じ、樺野沢城以外の小屋構えは全て破却するよう命じた。

八月、北条氏照、氏邦らの小田原からの援軍は荒戸城を攻略し、樺野沢城を占拠して坂戸城の景勝軍と対峙した。九月二十日、景勝は直路城将の登坂与五郎らに対し日々樺野沢城の敵兵と戦い勝利を得たことを賞賛し、北条勢が樺野沢城周辺で普請を営んでいるとの報告を受け、甲州勢の加勢があるまで手堅く守るよう命じた。同月二十二日には樺野沢城の敵を数多討ち取るとの注進に対する返書でいまだ甲州勢の加勢が無い旨を書き送り、敵の様子を都度報告するよう求めている。九月二十六日にも甲州勢が後日必ず援軍に向かうと述べているが、結局援軍はなかった。

十月に入り、冬を前に河田伯耆守重親・北条丹後守高広らを樺野沢城に留めて本隊は撤退した。十月十二日、景勝は樺野沢城に立て籠もる河田重親に対し内通を促す書状を送った。同月二十八日、景勝は上田衆の清水藤左衛門に対し樺野沢城の敵兵を討ち取って勝利したことに対し感状を発給した。

天正七(1579)年二月三日、樺野沢城は景勝軍の攻撃によって落城し、北条高広らの軍は関東へ撤退した。天正七(1579)年二月十八日、景勝は吉田源左衛門に対し樺野沢城の敵を討ち取ったことに対し感情を発給した。三月三日には武田勝頼が新発田尾張守長敦に対し、樺野沢城をはじめ諸々の塁が落ちたことを喜ぶ書状を送った。

その後は上杉景勝の属城となり城代が置かれたが、慶長三(1598)年の景勝の会津移封により廃城となった。

「越後の虎」上杉謙信の急死によって、上田長尾氏出身の上杉景勝と小田原北条氏出身の三郎景虎の間で勃発した「御館の乱」、この戦乱において、小田原北条氏は当然、三郎景虎を支援することになります。この乱については別で考察する予定ですが、三郎景虎を擁立すれば当然越後は事実上、小田原北条氏の属国になってしまうことになるのですが、それでもなお三郎景虎を支持した勢力が越後国内に多く存在したことは注目されます。時の北条氏の当主であった氏政は、ここで間髪を入れずに越後に進出すべき場面でしたが、どうも氏政の腰が重いというか、動きが緩慢で、結局せっかく信越国境を越えて頚城まで侵攻し、春日山城をも攻撃圏に入れた同盟軍の武田勝頼が景勝との和議に応じるという、取り返しの付かない局面を迎えるに至りました。この決断は勝頼にとっても後でジワジワと利いてくる失策であったと思うのですが、同時に北条氏にとっても千載一遇の機会を逃してしまった印象は拭えません。そこで慌てて、なのかどうかは知りませんが、やっと北条の援軍が三国峠を越えて越後に侵攻することになりますが、これははっきり言って「時すでに遅し」という感が拭えません。このとき北条氏照・氏邦らが三国峠を越え、荒戸城を落として布陣したのがこの樺野沢城なのですが、ここから8kmほど北には上田長尾氏の本拠、坂戸城が厳然と聳えており、結局北条勢はこの樺野沢城から先には進めずに、厳冬期を前に撤退してしまいます。御館の乱においては景勝勢が拙速とも思える策を次々と打っているのに対して、北条勢のこの遅滞ぶりは事態を悪化させるのみで何の利益ももたらさなかったと言えます。少なくとも緒戦においては景勝の劣勢は明らかで、春日山城こそ景勝の手に落ちたものの、北条・武田が軍事的にも外交的にも素早く展開したら、景勝は恐らく袋の鼠であった筈です。「巧久は拙速にしかず」「兵は拙速を聞くもいまだ巧久を聞かざるなり」この言葉を贈りたいと思います。

樺野沢城は「上越国際スキー場」の南側の丘陵上にあり、比高60mほどの丘陵まるごとを縄張りに組み込んだ、かなり規模の大きいお城です。縄張りは非常に複雑で、自然の沢や谷戸を巧妙に取り入れ、さらに越後国内でも屈指の工事量を施しています。堀切の巨大さや角度の急なことは驚くばかりです。さらに、必殺の「連続竪堀」を設けて尾根続きを分断したり、山腹に延々と帯曲輪・横堀を設けたりで、技法的にも見るべきところの多いお城です。ただ、いわゆる「北条流」と言えるような整然とした縄張りは見られません。これは北条軍が駐屯した期間が比較的短かったこともあるでしょうが、駐留軍の主力はあくまでも北条(キタジョウ)高広や河田重親などの景虎支持派の越後勢だったことを示唆しているような気もします。

現在、樺野沢城は地元の保存会によって見学路も整備され、下草も少なく気持ちよく歩くことができます。要所要所には標柱も建てられていますが、遺構に手を加えずにありのままの状態を保っているのは非常に好感が持てます。保存会の活躍に感謝したいと思います。それにしても、ゲレンデになってしまわなくて本当に良かった・・・。

樺野沢城平面図(左)、鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。

【樺野沢城の構造】

樺野沢城は、魚野川上流部左岸の連続した丘陵の一端にあり、比高60m、半径およそ300mほどの丘陵のほぼ全部を城域に取り込んでいる。丘陵そのものはそれほど要害性が高いとはいえないが、沢や谷が複雑に入り組んでおり、これらを縄張りの一部として活用している。尾根続きにあたる南側には連続竪堀を設け、さらに城域の西の端である堀切7や主郭直下の大規模な堀切4などで独立性を高めている。

主郭は最高所であるT曲輪であるが、この曲輪そのものはごく狭いもので、物見や戦闘指揮所として機能したものであろう。城域としての主要部はこのIaを含む、下段の帯曲輪(Ib〜f)までを含む部分と考えていいだろう。

この主郭群の南東には、大堀切2を隔てて二郭群にあたるU曲輪群があり、さらに大堀切1を隔ててV曲輪群がある。この曲輪群を分断する堀切1、2は非常に規模が大きく、最大で高さ10mを越え、さらに角度が非常に急で、今なお見学路以外の通過が困難なほどである。

この曲輪群とは別に、西側の山腹の谷戸に面してW曲輪群があり、ここにも大規模な堀切8、9や竪堀10、11などが見られる。山腹には登城路を兼ねた横堀状の堀底道(堀12、13)がほぼ半周しており、途中には「望楼」とされる櫓台状の高台などがある。

樺野沢城は総じて非常に施工規模・施工量が大きく、縄張りも越後の城郭の中では特異な城であるが、その個々の手法は越後の他の城郭でも見られるものが多く、技巧的ではあるものの後北条流の整然とした縄張りや、馬出し、比高二重土塁、横堀、畝堀のような典型的北条流技法は見られない。御館の乱時の改修にあたっては北条の指揮下で改修された部分はごく少なく、あくまでも越後勢がその主力になっていたものと考えられる。

[2004.06.13]

樺野沢城遠景。パッと見で目立つような山ではなく、ごく緩やかな丘陵の一角なのですが、複雑な自然地形と大規模な普請で要塞化しています。 上越国際スキー場のすぐ脇に建つ「下屋敷跡」の標柱。家臣団の屋敷でしょうか。
保存会の赤い旗が林立する入口附近には「元屋敷跡」の標柱が。下屋敷と元屋敷、どう違うのかわかりませんが、こちらは城主居館でしょうか。ちなみに居館部はJR上越線に分断され遺構はほとんどありません。 緩やかな山道を辿ると、早速堀切15が現れました。規模は大きくはないですが薬研の形が実に鋭い。
半円形の堀切14、ここは山を半周する帯曲輪に繋がる通路になっています。 山腹を取り巻く横堀状の通路。幾重にも取り巻く帯曲輪はこのお城の特徴のひとつでもあります。
帯曲輪の土塁の一角にある「望楼」とされる高まり。望楼と呼べるものがあったかどうかはともかく、大手道の監視にあたる櫓か木戸などがあったことでしょう。 深く入り込む侵食谷に沿って登ったところが大手口にあたる三ノ丸虎口。
「三ノ丸」の標柱が建つV曲輪群。およそ四段の曲輪があり、最下段が最も広いものです。 V曲輪群とU曲輪群を隔てる大堀切1。U曲輪側はおよそ8mあります。堀の長さも40m近くあります。
U曲輪群の土塁虎口。こうした明瞭な虎口遺構はここだけのようです。 「二ノ丸」の標柱が建つU曲輪群。こちらも4段ほどの小規模な曲輪が連続しています。

T曲輪群とU曲輪群を隔てる巨大堀切2。高いところで10mほどあります。高さもさることながら、この鋭い形状が実に印象的。

北側の出張り部分にある「景勝胞衣塚」。景勝のヘソの尾が埋まっている、とのことですが、景勝ってここで生まれたんだっけ?

主郭にあたるT曲輪への経路上の小曲輪群。一部に土塁があります。形状的には未発達ながらも、機能としては馬出しに近いものがあるでしょう。 細長く、「く」の字に折れ曲がる主郭。8km先の坂戸城がすぐそこに見えており、「御館の乱」時の緊張感が伝わってくるようです。
主郭を分断する堀切3。深さは2m程度ですが、垂直に近い急峻さで、ロープにつかまりながらの移動になります。 主郭の尾根続きである南西側を断ち切る大堀切4、規模といい急峻さといいスゴイ!
南西の細尾根には必殺の連続畝状竪堀があります。最大の見所のひとつですが、写真はイマイチですね。。。 こちらは法面の下から見る連続畝状竪堀。竪堀そのものは短いものが多く、一部には通路をかねているものもあります。
畝状竪堀と一体化した堀切6、西側斜面に向かって長大な竪堀となり、途中には折れもあります。 尾根続きを分断する堀切7、ここが一応城域のはずれとみていいでしょう。
西側の谷戸に面したW曲輪、標柱では「西ノ丸」。この附近にも多くの曲輪や堀切、堀底通路などが見られます。 W曲輪に隣接する竪堀10、11。竪堀10は通路を兼ねているようですが、竪堀11は中途半端な行き止まりになっています。

 

交通アクセス

関越自動車道「塩沢石打」IC車5分。

JR上越線「大沢」駅徒歩10分。なお最寄の「上越国際スキー場」駅は臨時列車しか留りません。

周辺地情報 荒戸城坂戸城がオススメです。
関連サイト  

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「上杉謙信大事典」(花ヶ前盛明/新人物往来社)

「上杉家御書集成U」(上越市史中世史部会)

「上杉家御年譜 第二巻」(米沢温故会」) 

参考サイト  

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