「越後の虎」上杉謙信の急死によって、上田長尾氏出身の上杉景勝と小田原北条氏出身の三郎景虎の間で勃発した「御館の乱」、この戦乱において、小田原北条氏は当然、三郎景虎を支援することになります。この乱については別で考察する予定ですが、三郎景虎を擁立すれば当然越後は事実上、小田原北条氏の属国になってしまうことになるのですが、それでもなお三郎景虎を支持した勢力が越後国内に多く存在したことは注目されます。時の北条氏の当主であった氏政は、ここで間髪を入れずに越後に進出すべき場面でしたが、どうも氏政の腰が重いというか、動きが緩慢で、結局せっかく信越国境を越えて頚城まで侵攻し、春日山城をも攻撃圏に入れた同盟軍の武田勝頼が景勝との和議に応じるという、取り返しの付かない局面を迎えるに至りました。この決断は勝頼にとっても後でジワジワと利いてくる失策であったと思うのですが、同時に北条氏にとっても千載一遇の機会を逃してしまった印象は拭えません。そこで慌てて、なのかどうかは知りませんが、やっと北条の援軍が三国峠を越えて越後に侵攻することになりますが、これははっきり言って「時すでに遅し」という感が拭えません。このとき北条氏照・氏邦らが三国峠を越え、荒戸城を落として布陣したのがこの樺野沢城なのですが、ここから8kmほど北には上田長尾氏の本拠、坂戸城が厳然と聳えており、結局北条勢はこの樺野沢城から先には進めずに、厳冬期を前に撤退してしまいます。御館の乱においては景勝勢が拙速とも思える策を次々と打っているのに対して、北条勢のこの遅滞ぶりは事態を悪化させるのみで何の利益ももたらさなかったと言えます。少なくとも緒戦においては景勝の劣勢は明らかで、春日山城こそ景勝の手に落ちたものの、北条・武田が軍事的にも外交的にも素早く展開したら、景勝は恐らく袋の鼠であった筈です。「巧久は拙速にしかず」「兵は拙速を聞くもいまだ巧久を聞かざるなり」この言葉を贈りたいと思います。
樺野沢城は「上越国際スキー場」の南側の丘陵上にあり、比高60mほどの丘陵まるごとを縄張りに組み込んだ、かなり規模の大きいお城です。縄張りは非常に複雑で、自然の沢や谷戸を巧妙に取り入れ、さらに越後国内でも屈指の工事量を施しています。堀切の巨大さや角度の急なことは驚くばかりです。さらに、必殺の「連続竪堀」を設けて尾根続きを分断したり、山腹に延々と帯曲輪・横堀を設けたりで、技法的にも見るべきところの多いお城です。ただ、いわゆる「北条流」と言えるような整然とした縄張りは見られません。これは北条軍が駐屯した期間が比較的短かったこともあるでしょうが、駐留軍の主力はあくまでも北条(キタジョウ)高広や河田重親などの景虎支持派の越後勢だったことを示唆しているような気もします。
現在、樺野沢城は地元の保存会によって見学路も整備され、下草も少なく気持ちよく歩くことができます。要所要所には標柱も建てられていますが、遺構に手を加えずにありのままの状態を保っているのは非常に好感が持てます。保存会の活躍に感謝したいと思います。それにしても、ゲレンデになってしまわなくて本当に良かった・・・。
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樺野沢城平面図(左)、鳥瞰図(右) ※クリックすると拡大します。 |
【樺野沢城の構造】
樺野沢城は、魚野川上流部左岸の連続した丘陵の一端にあり、比高60m、半径およそ300mほどの丘陵のほぼ全部を城域に取り込んでいる。丘陵そのものはそれほど要害性が高いとはいえないが、沢や谷が複雑に入り組んでおり、これらを縄張りの一部として活用している。尾根続きにあたる南側には連続竪堀を設け、さらに城域の西の端である堀切7や主郭直下の大規模な堀切4などで独立性を高めている。
主郭は最高所であるT曲輪であるが、この曲輪そのものはごく狭いもので、物見や戦闘指揮所として機能したものであろう。城域としての主要部はこのIaを含む、下段の帯曲輪(Ib〜f)までを含む部分と考えていいだろう。
この主郭群の南東には、大堀切2を隔てて二郭群にあたるU曲輪群があり、さらに大堀切1を隔ててV曲輪群がある。この曲輪群を分断する堀切1、2は非常に規模が大きく、最大で高さ10mを越え、さらに角度が非常に急で、今なお見学路以外の通過が困難なほどである。
この曲輪群とは別に、西側の山腹の谷戸に面してW曲輪群があり、ここにも大規模な堀切8、9や竪堀10、11などが見られる。山腹には登城路を兼ねた横堀状の堀底道(堀12、13)がほぼ半周しており、途中には「望楼」とされる櫓台状の高台などがある。
樺野沢城は総じて非常に施工規模・施工量が大きく、縄張りも越後の城郭の中では特異な城であるが、その個々の手法は越後の他の城郭でも見られるものが多く、技巧的ではあるものの後北条流の整然とした縄張りや、馬出し、比高二重土塁、横堀、畝堀のような典型的北条流技法は見られない。御館の乱時の改修にあたっては北条の指揮下で改修された部分はごく少なく、あくまでも越後勢がその主力になっていたものと考えられる。
[2004.06.13]