新潟県と群馬県の県境には、「三国峠越え」と「清水峠越え」のふたつの主要ルートがあります。清水越えは一応国道291号が通っていることになっているのですが、実際には途中で悪路となり、やがて道は消えてなくなります。清水越えは上越国境の最短ルートではありますが、道のりが険阻なため、戦国期には主に三国越えが主要な街道・軍道となっていました。三国越えの方は現在も国道17号が走っており、陸路の主要幹線になっています。ちなみに清水越えは地上の道は途絶えましたが、在来線「清水トンネル」、新幹線「大清水トンネル」、関越道の「関越トンネル」など、地下で繋がっています。
この三国越えは実は越後側からは「芝原峠」「仁居峠」「火打峠」「三国峠」の四つの峠が連なっています。このうち今回紹介する荒戸城は「芝原峠」つまり最も越後寄りの、越後という国にとって最終防衛線にあたる峠に築かれたお城です。ここは、「御館の乱」に際し、上杉景勝が小田原北条氏の三国越えを阻止するために取り立てたもので、景勝の地元である上田衆(坂戸城の家臣団)の深沢刑部少輔利重、富里三郎左衛門らに対し、「荒砥・直路」の備えを厳重にするよう、再三指示がなされています。ちなみに「直路」とは、清水越えを監視するお城です。この峠を越えると景勝の本拠地である上田荘、坂戸城は目の前であり、なんとしても関東勢をこの峠で食い止める必要がありました。
一方、北条氏の方はいち早く氏政が実弟の三郎景虎を救うべく、武田勝頼に救援を要請するのですが、氏政自身の動きは鈍重で、そのことに不信感を抱いた勝頼に対して景勝側から好条件での和議が提案され、勝頼もそれを受諾したことで、四面楚歌であった景勝勢は一気に形勢を挽回します。氏政、こりゃイカンと思ったか、ここで実弟の滝山城主・北条氏照、鉢形城主・北条氏邦らを援軍として差し向けます。この北条援軍、三国峠を越えてこの荒戸城を攻略し、樺野沢城を拠点に景勝の本拠である坂戸城を攻撃しますが、坂戸城はとうとう落ちず、冬を前に撤退を余儀なくされます。どうもこのあたりの北条勢の動きはあまり褒められたものではなく、本気で三郎景虎を救う気があったのかどうか、疑わしくもなります。実際、勝頼との連携がもっと迅速に行われたら、おそらく景勝が越後の太守になることはなく、三郎景虎が勝ち残ったように思えますし、そうなれば北条氏にとっては一気に越後まで領国化できた筈なのに・・・。まあ、越後勢のソレガシがこんなことを言うのもナンではありますが・・・。
その後の荒戸城は、関東勢がふたたび三国峠を越えるのを阻止するべく、関所的な機能を持って維持されましたが、北条氏の滅亡などによってその存在意義を失い、おそらく景勝の会津移封前に廃城になっていたのではないかと思います。ただ、この日本の裏表を分ける峠は近世も重要視され、附近の八木沢に口留め番所が置かれました。
で、荒戸城の遺構ですが、ヒジョ〜に素晴らしいです!「芝原トンネル」北側から三国峠の旧道を登り、暫くすると荒戸城への道が分かれるのですが、この道こそが謙信が馬上盃を片手に(?)関東へと旅立っていった、上杉軍道です。さらに軍道から荒戸城大手道への分岐があり、約10分ほど雑木林の中を登ると・・・突然目の前に現れる、折り重なる塁壁の生々しさ、堀の見事さに思わず山の中で感嘆の声を上げてしまいます。季節にもよるのでしょうが、塁壁や堀底には草木も全く無く、高い山の上にあることも幸いしてか、遺構の破壊も全く無く、まさについさっきまで誰かが守備していたような、そんな生々しさに思わずゾクっときます。主郭の虎口なんか、うっかり近づくと伏兵が襲ってくるんじゃないか、そんな錯覚に捕らわれそうなほどです。主要な曲輪はわずか4つ、城域は100m×100mほどの、ごく小さいお城なのですが、縄張りもまた素晴らしい。なかでも大手口、搦手口の「これぞ」という馬出しの存在は、越後広しといえどもこのお城だけの際立った特徴でしょう。さらに大胆な横堀、鋭く山腹を切り裂く竪堀、曲輪から曲輪へ簡単には移動できない巧妙な縄張りなど、小なりといえども見ごたえは一級品、すべての城郭ファンに、赤丸付きでオススメしておきます。
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荒戸城鳥瞰図(左)、平面図(右) ※クリックすると拡大します。 |
【荒戸城の構造】
荒戸城は越後と関東の境に聳える三国峠の北、芝原峠越えを見下ろす、標高789mの山の端に築かれている。その立地から容易に推測できるように、関東からの侵攻に備えて峠を扼する位置に築かれた、関所的な機能を持つ城郭である。よって、領域支配を目的とした領主の山城のような根古屋集落を持たず、領主と領民の関係も見られない、純軍事的な城である。
この城は上杉景勝の書状によって、築城時期が天正(1578)年であることがはっきりしている。その意味では、戦国後期の築城スタイルを知る上で格好の教材でもある。ただし、短期間ではあるが小田原北条氏が占領していた時期もあり、現遺構のすべてが景勝の手によるものかどうかは何ともいえない。むしろ、かなり洗練された築城理論を持つプロの仕業にも見えるので、小田原北条氏の計画的な改修もあったかもしれない。当時の越後の城郭では類を見ない馬出し虎口などは、北条氏によるものであるかもしれない(ちなみに当時の景勝は、当然まだ織豊系城郭というものは知らなかった筈である)。
地形的には標高800m近い高所にあり、山麓からの比高差は250m、芝原トンネル附近からの比高差は100m、上杉軍道からは60mほどの高さにある。芝原峠に突き出した尾根の先端部にあり、決して険阻な地形ではないが、周囲の山々は2000m級の高峰であり、上杉軍道さえ押さえてしまえば他のルートでの侵攻は困難な位置にある。唯一の尾根続きは、この城のただひとつの堀切(堀5)で断ち切られている。
主要な曲輪はT〜Wの四郭構造に、大手・搦手それぞれに馬出し曲輪(X、Y)を設けた構造である。主郭のT曲輪は西側を除いて重厚な土塁が見られる。この主郭には、東と南にふたつの虎口があり、南の虎口が大手に相当する。この虎口は、U曲輪との接合部が土橋状になっている。堀でもない場所にわざわざ土橋状のスロープを築いているのは珍しい。搦手である南虎口は小規模な枡形空間を抜け、V曲輪に達するが、その前に堀6にぶつかる。この堀はV曲輪の途中で終わっており、現状から見ると未完成のような半端な印象を受けるが、おそらくこの搦手道をV曲輪から切り離すことを目的としたものであり、現状見られる遺構で十分その役割は果たしていると見ていいだろう。往時は曳き橋等があったものと思う。
U曲輪とW曲輪の間は、急傾斜の竪堀4によって分断されており、容易に行き来できない。さらにU曲輪とV曲輪の間にも、竪堀状の自然の谷戸が立ちはだかっているため、こちらも直接行き来できない。全ての曲輪は主郭を中心に、完全に独立して機能するように十分考えられて配置されている。
ふたつの馬出しの周囲には横堀1、7が設けられているが、その外側は一重の土塁を境に完全に自然地形である。馬出しからU曲輪、V曲輪へは、曲輪の削平面より若干低い枡形状の窪みを経由する。馬出しの背後に、さらに二重の防衛ラインを設定していたのであろう。
以上のように、荒戸城は非常に洗練された縄張り構造を持っている。国人領主が居住のために構築した城とはひと味もふた味も違う、純粋な軍事的要求に基づいて築かれたものである。問題は現状見られる遺構がいつ頃完成したかであるが、御館の乱の時点で、上杉勢にこのような築城スタイルがあったとは思えない。むしろ北条氏の影響、または織豊系城郭の影響を感じてしまう。北条氏のものだとすれば、御館の乱時に三郎景虎救援のために樺野沢城に駐屯した天正六(1578)年夏から秋ごろのものとも考えられるが、北条氏のものにしてはダイナミックさがない。また短期間の駐屯であったことを考えれば、北条氏による直接的な改修はそれほど大きかったようには思えない。むしろ、天正十八(1590)年の「小田原の役」前に、景勝が重ねて改修した結果ではなかろうか。馬出し虎口の様子などを見ると、北条系よりも織豊系の城郭に近い印象を受けた。いずれにせよ、相当な熟練されたプロ集団が関わっていることに間違いは無いだろう。
[2004.06.13]