黒川城探訪

我が故郷のお殿様、黒川氏は同族でおとなりの中条町の鳥坂城主・中条氏とは代々仲が悪かったらしく、何度も小競り合いを起こしていました。こんな片田舎でも、壮絶な死闘が繰り広げられたのか。川中島にも行ってるんだよね。自分の生まれた故郷の殿様が川中島で戦ったなんて、なんか不思議な気がする。御館の乱では、中条氏の鳥坂城を攻めている隙に、築地氏に攻め込まれたりもしています。そういえば中学校に通っているときに、ときどき築地の中学生が攻めに来ていました。400年も戦いつづけているとは・・・(関係ないか)。

さて、かつてはこのお城を「小城」と記載してしまいましたが、とんでもない!ほぼ全域を踏査した結果、「揚北の国人領主の山城としては最大級」であることを理解しました。以下、若干の地元びいきを交えつつ、詳細に黒川城について検討・考察してみました。

【黒川城の考察】

 

黒川城平面図(左)、鳥瞰図(右)

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黒川城は、胎内川が山間部を抜けて越後平野に流れ込む位置の右岸にある。扇状地の扇頂にあたる下館集落の東側に大規模な館城を構え、胎内川支流の戸ノ裏川(この「戸」とは木戸のことか)の対岸の山上に前要害山・奥要害山のふたつの要害を持つ。さらに、下館集落背後に控える小丘陵は現在、大蔵神社の社地であるが、ここが出城と考えられる。館城から奥要害までを含めた長軸は1km、短軸300mにもおよぶ、揚北でも有数の大城郭である。

前要害山は胎内川に面した比高100mほどの小山で、三つのピークを持つが、概して山上は狭く、居住性はない。構造的にも城外から通じる尾根筋を小規模な堀切(堀切1〜4)で断ち切り、数段の桟敷段を設けてはいるものの、三つのピークそれぞれは特に分断もされておらず、単独での防御力には乏しい。構造的にも奥要害山のものよりも旧いとみていいだろう。ここからは黒川氏にとってもっとも身近な脅威である同族の中条氏領と胎内川流域が見渡せるが、黒川氏の領土そのものは大蔵神社背後の低丘陵によってほとんど見えない。狼煙台や物見台程度の役割しか果たしていないだろう。

奥要害山へは一本の尾根筋で繋がっており、途中アップダウンを繰り返しながら、奥要害山南端の二重堀切(堀切5、6)に達する。途中、数箇所の平場らしきものが認められるが、尾根筋には堀切はなく、平場もほとんどは峰を利用した自然地形にすぎない。従って、前要害山と奥要害山はほとんど施工が見られない尾根によって接続されているのみで、この中間の尾根は城域ではないと看做すこともできる。

奥要害山は最高所が標高301m、館城からの比高は250mほどである。前要害山からのだらだら尾根の奥にあたり、実際歩いてみるとかなりの距離感を感じる。戦国中期以降の山城は、麓の居館と山上の要害が一体化して防御力を高めているものが一般的だが、そういう見方をすれば黒川城の場合は館と要害が離れすぎていて、一体化していない、過渡期の山城の様相である。これには、突出した尾根がなく、比較的なだらかな尾根筋を要害として活用せざるを得なかった現地の地形も関係しているものと思われる。

奥要害は400×100mほどの規模があり、これ単独で見ても、揚北の最大勢力である色部氏の平林城よりも大きい。ただし、尾根上に広い平坦地が取りづらい地形にあり、T曲輪U曲輪などを除けば長期にわたる居住性を備えた曲輪は少ない。この点は山上に広い曲輪を持つ平林城とは対照的である。奥要害は二重堀切(堀切5、6)より東側にあたり、この堀切を登りつめるとW曲輪に達する。U曲輪V曲輪W曲輪などは支尾根の接合部分にあたり、小規模な曲輪群と堀切などを密集させて、尾根続きの要所を防衛している。

要害部はところどころ10mを越える尾根の段差によって区画され、段差の下には堀切(堀切9、10、11)が設けられてそれぞれの区画の防御性を高めている。それぞれの段差は引き橋などで接続できるようなものではなく、巻き道のようなものがあるわけでもなさそうなので、当時も恐らく尾根上の通過は塁壁を直登するしかなかったであろう。あるいは平時は梯子などが置かれていたものだろうか。主郭にあたるT曲輪背後にも7mほどの段差があり、一度下った後に堀切12を経て再び登りとなり、桟敷段などを備えたX曲輪周辺の区画に繋がる。このX曲輪は詰の区画、あるいは搦手確保のための区画と考えることができる。この北側は一度大きく下がってから蔵王山(蔵王権現)方面へと繋がっている。この鞍部は通称「伝右衛門越え」と呼ばれるが、峠道であったようには見えない。鞍部には堀切13を配置して尾根続きを遮断している。その先には黒川氏の関連城郭である蔵王山城がある。蔵王山城の性格は、黒川氏の祈願所である蔵王権現の防衛と、北側尾根続きからの他勢力の侵攻に対する押さえとしての意味があるだろう。この北側の他勢力とは、直接的には色部氏を意識したものであろう。構造は古く、南北朝期から戦国初期の山城の形態を見せている。位置・規模・構造から、黒川城の詰の城、という位置づけよりもむしろ、蔵王権現自体が詰の城であり、蔵王山城はその前衛の砦としての位置づけが妥当だと考えられる。

これら山上の要害は戦国期には機能こそ失っていないものの積極的な拡張や改修は行われず、その努力はむしろ山麓の館城の拡張にむかったものと思われる。館城のあった場所は現在の下館集落附近であるが、宅地化・道路敷設・土採りなどによって旧状を完全につかむことは難しい。ただ、部分的に残る堀切や土塁の痕跡からおおよその規模と、少なくとも1、2回は館城の城域が拡張され、城主の居館も移ったであろうことが伺える。

最後に黒川氏の軍事動員力と、防衛計画を検討してみよう。

天正三(1575)年の「上杉家軍役帳」によれば、黒川氏の軍役は148名、さらに同心の土沢氏を含め計179名となり、三浦和田氏惣領家である中条氏よりも大きい。黒川氏単独の軍役だけ見ても、揚北では色部・新発田・加地に次ぎ、安田と並ぶ四番手である。このうち馬上は15騎、鑓は98とあるので、職業的武士階級は15、足軽級が100弱、その他は農兵らを編成した雑兵であったものであろう。

この構成から類推すると、おそらく黒川氏の最大動員力は士分は30、その配下の足軽・雑兵は150から200、総勢230前後、さらに臨時の賦役などを精一杯動員しても300前後ではなかったと思われる。当時の黒川氏領と現在の黒川村は地理的にほぼ同一(正確には現在の関川村の一部を含む)だが、現人口6900名に対し、戦国期はおそらく半分以下、せいぜい2000もいなかったであろう。戸数にして3,400というところか。そう考えると、もっと動員数は少ないかもしれない。ここでは300としておく。一応この数は、黒川基実が応永三十(1424)年に奥州伊達氏配下の滑沢氏に急襲されたときに立て籠もったとされる数とも一致している。

なぜ動員数を考えたかというと、黒川城の防衛にどれくらいの人数が必要かを考察したかったためである。仮に動員数を300とし、蔵王山城、持倉城等の支城に50から100程度を割いたとして、残り200の兵のすべてを黒川城に立て籠もらせることを考えてみた。戦国後期には城郭としての主体部が山麓の館城に移っていたと考えられることは前述の通りだが、この館城は胎内川の断崖や戸ノ裏川の深い沢に面し、容易に落とすことはできなかったであろう。これを守備するには西側の平野部に向かう面のみを守ればよく、100もあれば十分だったのではないだろうか。もちろん、それ以前に胎内川の線を防衛ラインとして出兵し、水際で迎え撃つことは当然である。さらに、山上の要害部に100から200の兵力を置けば、少なくとも黒川氏と拮抗する程度の勢力(中条氏、色部氏など)の攻撃には十分耐えられたであろう。逆に、それ以上の兵員がいても、山上の要害は居住空間が狭いため立て籠もることができない。万一館城を落とされた場合には全兵員が要害に立て籠もることになるであろうが、その場合は仮小屋などを建てて雑魚寝するしかなかっただろう。前要害山や大蔵神社敷地の出城には数十人を置いたであろうが、単独での防衛力に乏しいため、いざとなればこれを放棄してすべて奥要害まで兵を集結させたものであろう。奥要害は蔵王権現からの尾根続きか、胎内川方面からの尾根しか寄せ手の攻撃ルートは無く、少人数でも意外に守りは堅かっただろうと思われる。これ以外にもいくつかの支尾根があることはあるが、それぞれに堀切や小規模な削平地を備え、10人一組程度で十分防衛可能である。さらに、独立峰でないために完全包囲することは不可能で、多くの間道や水の手で支えられていたことが考えられる。

ただし、実際の歴史が証明するように、奥州の伊達氏や上杉氏本家などの大勢力を迎え撃つことはできないだろう。その場合は降伏するか、落城を受け入れるしかなかったと思われる。前述の応永の戦乱においては、伊達氏方の滑沢氏に加え、中条氏、守護の上杉氏まで敵としてしまった上、急襲を受けて基実はやむなく城を出て、並槻河原における乱戦の後に自刃するのである。一方、「御館の乱」に乗じて繰り広げられた中条氏配下の築地氏による攻撃の際にも落城しているが、このときも黒川清実は中条氏の本城である鳥坂城を攻撃している隙に急襲された。おそらく守備兵は留守居の数十人しかいなかっただろうからあまり参考にはならない。

【着色越後奥山荘黒川要害絵図】

Zu3.jpg (335619 バイト)

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テキストラベル付き


着色越後奥山荘黒川要害絵図」は、胎内川南岸から見た黒川城をイメージして描いてみたものである。居館部や城下集落については宅地化や道路敷設、地形の改変などで遺構・町割りの保存状態が悪く、居館部の縄張りも含めてあくまでも想像にすぎない。当然、この画全体に描かれている建物や田んぼ、集落、湿地などもみな想像の産物である。しかし、おそらく黒川城には瓦葺き屋根の建物は存在せず、城主の館も萱葺きか杮葺き程度であったろうし、要害の建物などは掘立て小屋に等しいものであっただろう。当然、天守など在りようも無い。一応、主郭(T曲輪)は多少格式の高い建物を配置し、板塀なども描いてみた。背後の詰曲輪(W曲輪)には持仏堂を置いてみた。城主にとっての精神的な中枢であるとともに、敵わぬ場合に自害を遂げる場所、と想定してみたのである。

基本的には城主の館も、その家臣団の屋敷地も旧い農家のような構造を想像して描いてみた。城主の居館をどこに置くかも悩んだが、現在「八反榧」のある、胎内川と戸の裏川合流点附近の段丘上としてみた。一応蔵や厩、馬場などを設け、多少家臣団の屋敷よりは豪華にしたつもりである。庭は東南隅に置いて見た。ここだと飯豊山脈の山々や鳥坂山がちょうどいい具合に借景になりそうだからである。黒川集落(里黒川)はこの当時、ムラとして存在していたかどうかはわからないが、まったく影も形も無いとは思えなかったので、一応ムラがあったことにしてみた。実はソレガシが生まれた家や実家の位置にも勝手に建物を配置してしまった。まあ、こんなものは考証のしようがないから大目に見て欲しい。荒川以北(画の奥)は小泉荘内であり、色部氏・本庄氏ら秩父平氏系の一族の支配地である。平林城は色部氏、本庄城村上城)は本庄氏の居城である。荒川河口は内陸に広い入り江状の氾濫原を持ち、かつては胎内川もこの附近で合流していた。その他、黒川集落を流れる小河川はすべて荒川水系に注いでいたはずである。途中、のちの近江新集落や平木田集落などの附近で小丘陵に遮られ、湿地帯を形成していた、と考えてみた。

黒川集落附近から見る黒川城遠景。蔵王権現方面から伸びる峰に延々と遺構が残ります。 根古屋集落であった下館集落。この屈曲部も舗装前はもっと急だったような記憶があります。ここにも何らかの木戸があったことでしょう。

戸ノ裏川北西岸、天然記念物「八反榧」のあたりが城主下館であったといわれています。ただし、遺構は部分的であり全体像はわかりません。 下館「木戸跡」付近の畑に辛うじて残る土塁。わずかに鉤型に折れています。これを見つけたときは感動しましたね。でも誰もこれが城の遺構だなんてきづいてないんだろうな(もしかしたら畑の地主でさえも)。
こちらは戸ノ裏川沿いに残る土塁。城主居館背後の木戸跡ではないかと思います。 左の土塁のさらに100mほど山側に残る土塁と堀。堀は山側(写真左手)にあり、河岸段丘と山を切り離す目的があるものと考えられます。

下館集落の端に残る堀切。胎内川に向かって伸びており、河岸段丘を分断しています。 大蔵神社の裾には泥田堀の名残と思われる湿地帯があります。

正月以外はひっそりとしている大蔵神社の参道。頂部は二段に削平されています。背後の峰続きに堀切があるとのことでしたが確認できず。駐車場建設等で失われたかもしれません。 大蔵神社脇の堤。当時も存在したかどうかは不明ですが、「着色越後奥山荘黒川要害絵図」では一応存在したものとして描いてみました。

戸ノ裏川沿いの林道最奥部、砂防ダム付近に立つ「奥山荘城館遺跡」標柱。しかし、肝心の山城への道は見つからず。しかたなく沢沿いの支峰の道無き道をよじ登ることに。昔だったら、石やら大木やら落とされて、死んでるだろうな。。。 長い峰の先端にある前要害山。三つのピークがありますが、それぞれの独立性はほとんど無く、数段の桟敷段があるくらいの簡素な構造です。

前要害山からは四方の峰続きに小規模な堀切が配置されています。写真は堀切2です。 前要害山からの景色。胎内川沿岸や中条氏の鳥坂城(白鳥要害)などが見えますが、肝心の黒川氏領は見えません。

だらだら峰を1km近く歩くと、ようやく奥要害山にたどり着きます。ここにはこのお城では最大規模の二重堀切(堀切5、6)があります。測量かなにかが行われたらしく、綺麗に草刈されていました。 二重堀切の間から堀切5を見下ろす。堀切5、6は竪堀として山腹を降りていきます。峰の傾斜を最大限利用して掘られているため、掘り下げている深さそのものは3m弱ほどです。

二重堀切の間からふたつの堀切を見る。多少無理のある構図かも・・・。ここからW曲輪までは一気に10m以上の段差を直登します。 W曲輪から北西に伸びる支尾根には堀切7、8があります。写真は堀切8。急斜面を藪コギししてようやくたどり着きました。

堀切9の手前にある、石積み(正確には積んではいない)を伴う土塁。堀を深くするのではなく、石積みを伴う土塁で深さを増すというちょっと変わった構造。 堀切9は掘った深さはせいぜい1.5m、しかしここから10m以上の塁壁を直答する必要があるため、なかなか突破するのは難しかったでしょう。

V曲輪はW曲輪と同じく、二つの尾根の合流点にあたります。周囲には小規模な腰曲輪が附随します。 防衛上最も要となるU曲輪周辺。ここも複数の曲輪が寄り固まって、堅固な防御陣地を形成しています。

T曲輪とU曲輪の間の段差。前を歩くのは父、山歩きは本職なのでお手の物です。 いよいよT曲輪、主郭です。といっても40×10m程度の広さしかありません。
黒川城の本丸(T曲輪)から見る風景。黒川集落はもちろん、荒川流域から村上方面まで見渡せます。ちょっとガスっていますが、天気によっては平林城村上城などもしっかり見えます。

見学路ははっきりしないのに、「黒川城本丸跡」の標柱はしっかり建っています。草取りもされているし、みんなどこから登ってきているのか・・・。 その標柱と一緒に写るソレガシ(セルフタイマー撮影)。単なる自己満足である・・・。

搦手にあたる蔵王権現との峰続きにある大きな石。石積みというわけでもなさそうですが、何らかの意味がありそうにも見えます。 T曲輪背後の堀切。ここも深さは1.5mほどですが、T曲輪の塁壁が高いため攻めるのは難しいでしょう。

奥要害山の一番奥がW曲輪、いわゆる詰曲輪として捉えてみました。周囲には帯曲輪や腰曲輪があります。 奥要害山から一旦大きく下って蔵王権現へとつながる尾根を断ち切る堀切。「伝右衛門越え」なる名前もあるようですが、いわゆる峠道みたいなものがあるようには見えませんでした。

おまけ。近世黒川藩(柳沢氏)の黒川陣屋跡。現在は住宅地の中の児童館、草野球場になっています。その向こうには僕の母校、黒川小学校も見えます。かつては、この敷地の周りを1mほどの土塁状の囲いがあったように思うのですが、おそらく現在の鉄製フェンス建設時に削り取られてしまったのでしょう。現在は跡形も、そこに陣屋があったことを示す標柱すらもありません。 もうひとつおまけ、名勝樽ヶ橋。中学校の帰りによく立ち寄っていたあたりです。飯豊山脈を源とするこの胎内川の流れが黒川城の外堀になるとともに、指呼の間に臨む中条氏領の鳥坂城との境になります。

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