黒川氏の祈願所を守護する

蔵王山

ざおうやまじょう Zaouyama-Jo

別名:

新潟県北蒲原郡黒川村蔵王

 

城の種別 山城

築城時期

宝徳二(1450)年

築城者

黒川氏実

主要城主

黒川氏

遺構

曲輪、堀切、竪堀、土橋

蔵王山城主郭<<2004年01月01日>>

歴史 宝徳二(1450)年、黒川城主・黒川氏実が鳥坂城主・中条房資や奥州伊達氏、上杉氏らの侵攻に備え築城したという。一帯は大宝年間(701頃)に大和国吉野の金峰山の蔵王権現を勧進し開基した山岳寺院で、黒川氏歴代の祈願所であった。寛喜二(1230)年には三浦和田氏の惣領家である三浦義村が蔵王権現本堂、前立堂などを再興している。また、元徳三(1331)年には黒川茂実が紫灯鉢を、応永十一(1404)年には黒川義実が懸仏を、永享八(1436)年には黒川氏実が鰐口を寄進するなど、代々尊崇した。慶長三(1598)年、黒川清実が上杉景勝の会津移封に伴い会津に移転したため廃城となった。その際に三体あった本尊の一体を持参したという。

通称「蔵王山」は、黒川村塩谷・塩沢・蔵王の集落背後、標高570mの高坪山を主峰とした山塊で、胎内川対岸の鳥坂山とともに、ソレガシにとって毎日その姿を見ながら育ってきた、原風景の山です。この山にはかつて蔵王権現堂があった、というのは子供の頃から聞かされてましたが(それが何だかはわかりませんでしたが)、そこに山城がある、と知ったのはここ数年のことでした。

色々調べていくうちに、黒川城主・黒川氏累代の祈願所がこの蔵王権現堂であり、それに附随する施設として蔵王山城が築かれたようだ、というところまでは分かりましたが、結構な比高差がある上、山自体がかなり大きいので場所もわからず、行く機会はありませんでした。

2004年正月元日、帰省先の越後は雪も無く穏やかな一日、「元日くらいは家にいれば?」という親を尻目に、登ってきました。2004年の記念すべき1城目です。あまり自慢になりませんが(笑)。

登り口は黒川村塩沢集落、蔵王集落附近からそれぞれ道が通じているのですが、山麓の丘陵が土採りや農園造成でかなり改変されているため、道がちょっとわかりづらいです。それでもなんとか蔵王権現の参道入り口に達し、急な山道を20分ほど登ると、「蔵王山城跡」の標柱が建つ峰の頂に達します。この標柱が建つ場所が主郭にあたるんでしょうが、曲輪といっても幅4m、長さ8mほどの狭いもので、建物なんかあったのかどうか。周囲には何段にも渡って幅の狭い桟敷段が連なっています。ここも建物を建てるスペースなどほとんどなく、鹿垣みたいなのを結い回すのが精一杯、という感じです。さらに奥に繋がる尾根筋には比較的規模の大きい二重堀切があり、城郭遺構的にはここが一番の見所でしょうか。全体的にはやはり本城である黒川城と比べても旧い形式であることは否めません。位置的には黒川城の北東に祈願所である蔵王権現本堂跡があり、そこから北に向かって伸びる尾根筋の中途の峰に築かれています。ここからさらに下ると金光山高全寺跡や役行者堂跡などの山岳寺院遺跡が点在します。つまり、蔵王山城はこれらの山岳寺院の真ん中にあり、寺院を守ると同時に寺院そのものと一体化した城郭であった、と見ることができます。むろん、黒川城の支城として、とくに北方の尾根続きを守る目的もあったでしょうが、いわゆる「詰の城」としての位置づけよりも寺院城郭としての位置づけの方が適切な解釈だと思います。ある意味、この蔵王山城と蔵王権現堂の山岳寺院群すべてが黒川氏の詰の城としての位置づけを持っていた、というようにも解釈できそうです。お城だけでなく、中世の山岳寺院跡も見ながら歩いてみていただきたいところです。

   

蔵王山城鳥瞰図(左)、平面図(右)

※クリックすると拡大します。

生まれてこの方、何度見たか数え切れない景色、通称「蔵王山」の姿。これでも土採りや果樹園造成などで大きく様変わりしているのだ・・・・。 蔵王権現跡は山城も含め、「奥山荘城館遺跡」として国指定史跡です。この参道も歴史ある道、として立派な史跡なのです。

参道を15分ほど登ると最初の堀切(堀切1)が現れます。ここは堀切というよりも、尾根を土橋状に削り残した竪堀という方が正しいかもしれません。いよいよ城域です。 急斜面を一気に上ると、「蔵王山城跡」の標柱が建つ曲輪Tに達します。一応主郭ではありますが、掘立小屋一棟が建つかどうか、という狭さ。ところで、標柱の「345m」って、間違ってませんか??

ちょっと分かりづらいですが、桟敷段状の小曲輪群です。基本的に建物は建てられず、柵を巡らせるのが精一杯、鉄砲戦などは全く考慮されていない、旧い形式の城郭であることがわかります。 西側の尾根続きの堀切2。堀切といっても掘り下げているのはせいぜい1mくらい。あとは急斜面の塁壁頼みという感じ。ここらへんはちょっとしたヤブ、新年早々初ヤブレンジャーしてしまった。。。

蔵王権現本堂へ向かう南尾根には大規模な二重堀切があります。写真は堀切3。土橋が明瞭です。両側は急斜面を降りる竪堀となっています。 同じく南尾根の堀切4。深さは4mほど、やはり竪堀となって両側の山腹に繋がっています。

うっすらと残雪の残る蔵王権現本堂へ向かう堀底状通路。竪堀、というわけではないです。これが当時の通路なのか、後世に遊歩道として作られたものかはわかりません。 すわ、クマか!と思いきや、カモシカの足跡でした。どうも親子だったみたいです。見たかったな。

これが黒川氏の祈願所、山岳密教寺院であった蔵王権現本堂跡です。暖かい正月とはいえ、ここまで来るとかなり寒いです。寺院と城郭の密接な関係が体感できます。 今日は元日だし、権現堂跡でお参りするソレガシ。今年こそ○○○・・・・。頑張れ、年男!(自爆)

本堂跡より見る景色。かなり高いのがわかるでしょう。中央の川は胎内川、左奥が鳥坂城(白鳥要害)、手前の峰が黒川城。中央右手の集落が黒川集落です。 この遺跡は、中世山岳寺院との複合遺跡でもあります。ここは山の中腹にある今蔵王堂跡。

こちらは参道入り口にある前立堂跡。あちこちに礎石が転がっており、寺院遺跡としての白眉であります。 ここは役行者堂跡。女性はここまでしか入れなかったそうです。

 

交通アクセス

日本海東北道「中条」IC車5分。

JR羽越本線「中条」駅バス「下館」まで20分、登山口まで徒歩40分。

周辺地情報 まずは黒川城鳥坂城江上館をはじめとした奥山荘の城館群もぜひどうぞ。

関連サイト

 

 

参考文献

「黒川村誌」

「新潟県中世城館跡等分布調査報告書」(新潟県教育委員会)

「やさしい郷土史 黒川村発展の歩み」(片野徳蔵)

「史跡奥山荘城館遺跡 整備基本構想」)(黒川村教育委員会)

「黒川村文化財マップ」(黒川村教育委員会)

「ふるさと散策」(中条町教育委員会)

「村民史跡探訪」(黒川村教育委員会)

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ