壮大な中世荘園を偲ぶ

奥山荘

〜遙かなる胎内川図志〜

おくやまのしょう

新潟県北蒲原郡中条町周辺

(地図は江上館)

願文山城からみるかつての塩津潟方面<<2003年05月03日>>

 

中世観測衛星「えちご」 観測報告書:その2

19500mから見た現在の奥山荘全域。中条駅を中心に、北は荒川、南は現在の金塚駅の南側附近あたりまでが奥山荘。

奥山荘は、越後北部、加治川と荒川の二本の一級河川に挟まれた、二級河川胎内川両岸を中心に拓かれた中世荘園である。もともとは現岩船郡関川村女川郷に発し、次第に霧出川流域、胎内川流域に開発が進められ、現在の中条町、黒川村全域と荒川町、関川村、加治川村の一部にまたがり、北は荒川保・小泉荘に接し、南は加地荘・豊田荘に接していた。

奥山荘は、豊富な史料の残存、数々の城館遺跡が残ることでも知られる。「中世荘園を学ぶなら、まず奥山荘を見よ」と言われる所以である。

ソレガシが生まれ育った黒川村も、奥山荘の一部、「北条」と呼ばれた地であった。そこで、中世観測管制センターは観測衛星「えちご」を北緯38度02分、東経139度24分附近の中条町上空附近に移動、中世周回軌道に乗って平安時代まで遡って観測をはじめた。


【奥山荘の起こり】
平安時代にこの地を支配したのは城氏である。城氏は陸奥守鎮守府将軍平維茂の子孫で、秋田城介となり奥山荘へ入部してからは、奥山氏、城氏を名乗った。城氏は開拓した土地を京都の藤原摂関家である近衛家に寄進してその庄司となり、櫛形山脈の鳥坂山周辺に城郭を構え、やがて豊田荘や白河荘を手に入れて、越後全土をも支配するようになった。そういう意味では奥山荘は寄進系荘園と言えるだろう。

「荘園」の定義はちと難しいが、少々乱暴な言い方をすれば「植民地」に近いものがあるだろう。大きくわけて、自勢力が開墾・開拓した荘園を「開墾系荘園」、地元の有力者が開墾し、名目的に公家や寺社に寄進したものを「寄進系荘園」という。

なぜわざわざ開拓した土地を寄進するのだろう?そこにはすでに、武士による土地簒奪の図式が見えてくる。大化の改新によって、日本全土は律令国家となり、「公地公民制」によって土地は原則国有化された。しかし、貴族や有力寺社による私有地である「荘園」の発生や、班田収受などによって、次第に公地公民は有名無実となってくるのである。荘園には不輸不入の権などの特権が認められ、なかば独立国のような様相を見せてくる。そんな中、土地の有力豪族は、自分で開拓した土地を名目的に公家・寺社に寄進することによって、「庄司」として正式にその支配権を認められるのである。都の名目上の土地所有者には、申し訳程度の貢納を行い、実質的には自分で開拓した土地を自分で支配するのである。当たり前といえば当たり前のことだが、当時の律令制の下ではすべての土地は国有が建前であったから、寄進系荘園というのは脱法行為、不法占拠にあたる。このときにすでに武士による土地の簒奪構造ははじまっていたのである。ちなみに、地名で「荘・庄」や「条」がつくところは概ね荘園地内、「保」がつくところは概ね国衙領であったと見られる。奥山荘近辺では、北部を「荒川保」に接していたが、この荒川保は国衙領であったのだろう。

【地形】
奥山荘を流れる胎内川は古くは太伊乃川と呼ばれていた。現在の黒川村下館集落を扇央に、広大な扇状地、河岸段丘が広がっている。下流域では胎内川はほとんど水の流れない「水無川」となり、河口付近で伏流水がふたたび地表に現れる。そのため「胎内」川と呼ばれるようになった、という説がある。また別説には、アイヌ語の「ティナイ」に語源を発するともいう。

現在の地形と大きく異なる点として、
1.塩津潟の存在
2.胎内川河口の位置

が挙げられるだろう。

塩津潟(紫雲寺潟)は現在の中条町から加治川村にかけての平野部にあった湖沼で、「塩津」とは、現黒川村塩谷集落・塩沢集落で採れた塩を水運で運び出したことに由来するという。塩津潟周囲にも低湿地が広がり、加治川水系や信濃川・阿賀野川河口域の広大な水郷地帯とも水運が開けていた。塩津潟が干拓されたのは江戸期に入ってからで、落堀川の開削により、現在のように広大な美田が広がる稲作地帯となった。

胎内川は現在、笹口浜附近に注ぎ込んでいるが、この河口が開削されたのは明治に入ってからである。それ以前は海岸線に広がる砂丘地帯に遮られ、本流は現荒川河口付近に流れ込んでいた。その名残は現在の逆水川や乙大日川に見ることが出来る。また、下流域に広がっていた低湿地は、中条町八幡集落の水芭蕉の群生地や、逆水川流域に名残をとどめている。

下記の観測写真は、かつて塩津潟と呼ばれた地に、湖水面6mの湖沼を生成したみたものである。また、胎内川現河口付近から荒川河口にかけては、湖水面2mの氾濫原を再現してみた。もちろん地形改変や地盤の変化もあるであろうから、この通りの形であったとは限らない。水位も季節によって、随分と変動した筈である。

中世の奥山荘を北側から見る。胎内川河口は開かれておらず、荒川に注いでいた。荒川河口附近は広大な氾濫原が広がっていただろう。現在の金塚駅の目の前には塩津潟が広がり、加治川水系、阿賀野川水系とも繋がって、広大な水のネットワークを形成していた。 金山集落(加治川村)上空7260mからの景観。塩津潟は概ね5-6m程度の水位と仮定した。衛星写真にも写るように、島や干潟などもあっただろう。周囲には戸野港、船戸など、水運に関わる地名も見られる。加治川村の境集落は、おそらく加地荘との境にあたるのだろう。

金山城館群のうち、願文山城から見たかつての塩津潟方面。塩津潟は落堀川の開削により干拓され、今はすっかり美田に生まれ変わっているが、田植えの季節、水を湛えた水田の姿は、かつての姿を髣髴とさせる。
築地氏館附近から見る奥山荘の広がり。正面やや左が城氏、中条氏の居城となった鳥坂山(白鳥要害)。連なる櫛形山脈の山並みは、総延長14km、最高峰櫛形山標高568mあまりの、日本一小さい山脈である。

左は現加治川河口1660m附近から撮影した塩津潟。戸野港、船戸、金山集落などは水陸の交通の接点として、大いに繁栄したであろう。上は現在の船戸川と船戸集落附近。


【城氏の叛乱と鳥坂城】

治承四(1180)年、越後守に任じられた城資永によって、鳥坂城が有事の要害として取り立てられた。時に平氏全盛の時代である。その頃、伊豆に配流されていた源頼朝、木曽義仲らが平氏に対抗して旗揚げしたが(治承の乱)、資永・資職(のち長茂に改名)は平氏方として、木曽義仲、甲斐武田氏、浅利氏、逸見氏らを討つために出陣するが破れ、文治四(1188)年、資職は梶原景時を仲介に自ら囚人として鎌倉に赴き、頼朝に降って翌年許され、御家人に名を連ねた。

鎌倉からも都からも遠く離れたこの奥山荘の地でも、時代の流れは確実に押し寄せていたのである。

建仁元(1201)年、城長茂は京都で平氏復興の叛乱を企てるも失敗、吉野の地で討たれた。このとき、呼応した城資盛は鳥坂城で挙兵、幕府は佐々木盛綱を越後御家人の総大将として追討軍を派遣した。城資盛の叔母、板額御前は大岩を投げ落とし、強弓で敵方を射倒す大奮闘をしたといわれる。資盛は出羽に逃れ、板額は捕らえられ鎌倉に護送された。のちに甲斐源氏の一派、浅利与一のもとに嫁いだといわれる。この敗北により、城氏は事実上滅亡した。

黒川集落から見上げる鳥坂山。この山の姿を見ない日はないほどの環境でソレガシは育った。 朝霧に煙る鳥坂山の支峰、白鳥山。中条氏の白鳥要害は、戦国期の遺構を残す。城氏の時代の山城は、やはり鳥坂山頂にあったと思う。


鳥坂城は日本一小さい山脈、櫛形山脈の北端、鳥坂山(438.8m)の西の支峰、白鳥山(298m)に築かれた山城である。しかし、白鳥山の現存遺構は、中条氏(三浦和田氏)が戦国後期にかけて拡張したものである。城氏が挙兵した鳥坂城がこの白鳥要害であるかどうかは定かではない。一説に、現鳥坂山山頂付近を城氏の時代の古城とする見方もある。また、櫛形山脈には、この頃城氏が築いたと伝えられる、初期の素朴な城砦が点々と連なっている。

 

 

 

 

 

 

【承久の変と金山城】

中世城館が肩を並べる金山城館遺跡群の中でもひときわ高く聳える願文山城。ここでの闘いが飛び火して「承久の変」が勃発したというが・・・。

承久の変は、後鳥羽上皇と鎌倉幕府執権・北条義時の、「朝廷VS武家政権」の軍事衝突である。この端緒を切る事件がこの奥山荘で発生したという。

場所は金山城館群のうち、最も古いとされる願文山城である。のちに幕府から、乱逆の張本人として非難された

七人の公家のうちのひとり、藤原信成の家人で、後鳥羽上皇の院宣を奉じた酒匂家賢以下六十余名が承久三(1221)年五月二十九日、この願文山城に立て籠もった。このときに幕府追討軍の総大将に任ぜられたのは、隣接する加地荘の地頭、加地(佐々木)信実だったという。幕府軍総大将である北条朝時を補佐して籠城軍と闘い軍功を挙げた。結局、願文山の戦いは幕府の圧勝に終わり、家賢以下籠城の六十余名はことごとく討ち取られたというが、これが口火となって「承久の変」が勃発したという。やや話が出来すぎている気がしないでもない。なお、変は鎌倉幕府軍の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐島に流罪となり、執権北条氏による鎌倉幕府の体制を磐石のものにする結果となってしまった。武家が上皇を流罪にするというのは、日本の有史以来の出来事であった。

 

 

 

【三浦和田氏の入部】
その後幕府は木曽義仲追討の恩賞として、侍所別当・和田義盛の弟、和田義茂に奥山荘地頭職を与えた。三浦和田氏はその後の幕府の権力争いである「和田義盛の乱」(和田合戦)や宝治合戦においても、和田氏、惣領家の三浦氏がことごとく滅亡する中、一貫して幕府方につき、三浦和田氏の血統を後世に残した。建治元(1277)年、和田時茂は孫ら三人に奥山荘を分割して相続、荘の中心、中条の地を茂連に、胎内川以北の北条を茂長に、南条関沢の地を義基にそれぞれ分与した。それらは後に中条氏、黒川氏、関沢氏の祖となり、さらに築地氏、長橋氏、羽黒氏、高野氏、金山氏などの多くの庶流を生み出した。

胎内川扇状地上空4900mより。中条氏の初期の居館は江上館であったが、のちに詰めの城、鳥坂城山麓に移された。黒川城(奥要害山)は黒川氏の詰めの山城。平素は山麓の居館(現下館集落)に居住した。このころの黒川は、「山黒川」と呼ばれた下館集落が中心であり、「里黒川」と呼ばれた現在の黒川集落が発展するのは近世に入ってからである。

【中条氏VS黒川氏】
中条氏と黒川氏は波月条や金山郷などの周辺の所領をめぐり度々紛争を起こした。
有名な「波月条近傍絵図」は、詳細は不明であるものの「太伊乃川(胎内川)」の氾濫により、中条氏と黒川氏の間で領土の境界線紛争が発生した際の裁判資料であるという。波月条(現・中条町並槻)は現在は胎内川南岸であるが、この絵図では北岸になっている。恐らく、黒川氏方が提出した証拠資料であろう。胎内川が氾濫し河道が変化するたびにこういった争いが起きていたのだろう。現在の中条町並槻集落は明らかに胎内川の南岸に位置しており、黒川と争う余地もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

国指定文化財「波月条近傍絵図」。波月条は太伊乃川(胎内川)北岸に描かれている。 並槻集落上空、3467mより。並槻集落は胎内川南岸に位置している。今裁判をやっても、黒川氏敗訴は火を見るより明らかである。

睨み合う黒川城と鳥坂城。直線距離はおよそ2km。もとは同族なんだから、もっと仲良くすればいいのに。。。 現在の並槻集落と胎内川。中条氏と黒川氏が争ったこの地は、同時に黒川基実が非業の死を遂げた地でもある。

応永三十(1424)年、足利幕府将軍の義量と関東公方・持氏の関係が悪化、越後においても室町幕府に与する守護・上杉房朝と関東公方に与する守護代・長尾邦景が対立した。守護方の上杉頼藤は奥州の伊達持宗の援軍を得て、黒川城の黒川基実、鳥坂城の中条氏を始めとした三浦一族に守護代方の山吉行盛の守る三条城攻撃を命じられ参戦したが、長尾邦景から所領安堵を受けている恩義から、黒川氏は新発田城の新発田氏らと語らい寝返り、軍を引き返した。鳥坂城主の中条房資は滅亡寸前の窮地に陥ったという。この報復に、上杉頼藤、鳥坂城主の中条房資ら五千に黒川城を攻められ降伏開城した。上杉頼藤は援軍の伊達氏に恩賞として荒河保を与え、伊達氏の一族である滑沢氏が居を構えたが、応永三十(1424)年、基実の油断に乗じて滑沢氏が黒川城に夜襲をかけ焼失、基実は胎内川河畔の並槻河原で戦ったが乱軍の中で自刃した。このとき基実の子、弥福丸(のちの氏実)は中条房資の甥に当たるため、房資はひそかにこれを逃し、出羽大宝寺氏に庇護され、のちに黒川氏は再興を果たしたという。

わが父なる大地、母なる川に抱かれた黒川集落。左手のマイクロウェーブアンテナ後方が白鳥要害、右手手前にこんもり見えるのは板額峰(下赤谷城)。その奥に見える山が黒川城。

天文七(1538)年、越後守護上杉定実に後嗣問題が起こった。子の無い定実は、奥州伊達家から養子を迎え入れようとした。伊達稙宗の子・時示丸は、鳥坂城主・中条藤資の妹と伊達稙宗の間に生まれた子である。中条藤資にしてみれば、守護家の縁戚、後世の守護の叔父として権勢を振う、絶好の機会である。しかし、黒川氏をはじめ色部氏、本庄氏など揚北衆の殆どが反対し、対立した。やがて時示丸の縁組にあたって、伊達家中でも騒動が発生、養子話は立ち消えとなってしまった。

【戦国期の三浦和田氏】
鳥坂城主・中条藤資は栃尾城主・本庄実仍らとともに、長尾為景の子で守護代の晴景に対抗し、栃尾城の戦いや黒田秀忠討伐で名を馳せた景虎(後の上杉謙信)を守護代職に擁立することを画策した。これに対し、黒川実氏は対抗して晴景側についた。やがて景虎が晴景の養子として守護代を継ぐと、実氏は景虎に帰服して許され、川中島や本庄城の本庄繁長の叛乱制圧などに従軍した。一方、中条氏は藤資に世継ぎが無く、吉江氏より養子を迎え入れ、中条景泰と名乗った。
天正五(1578)年、謙信の死去により勃発した御館の乱では、中条氏が景勝側に与したのに対抗して、黒川清実は三郎景虎側につき、中条氏の鳥坂城を攻めたが、逆にその間隙を衝いて中条氏の一族の築地資豊に黒川城を攻められている。
謙信股肱の臣であった中条藤資の養嗣子・景泰は天正十(1582)年、越中魚津城で織田軍に攻められ切腹した。上杉景勝は中条景泰の長子・一黒丸の家督を安堵し、一族の築地資豊に後見を命じた。築地資豊は景泰を失った中条氏の執政として、新発田重家の乱鎮圧の際にも活躍した。資豊に庇護された一黒丸は慶長二(1597)年に元服し三盛と名乗った。

慶長三(1598)年、景勝の会津移封に従い、三浦和田氏もこの地を離れた。三浦和田氏の奥山荘支配は、およそ490年であった。

【奥山荘城館遺跡】
奥山荘には、大小さまざまな城館遺跡が残っている。それぞれについての詳細は各城館の頁を見ていただくとして、ここではその位置関係と、特色を簡単に見ていこう。

江上館(国指定史跡・奥山荘城館遺跡)
中条町の本郷附近、かつての胎内川河道に近い自然堤防上に築かれた城館である。14世紀頃までの中条氏の居住する館であったと考えられる。館は方形の土塁に囲まれた曲輪を中心に、戦国前期に拡張したと見られる外曲輪や馬出し形式の虎口などが見られ、戦国期にかけて平城として拡張されたことを思わせる。詰めの要害である鳥坂城(白鳥要害)とはおよそ3km離れており、後に中条氏は鳥坂山麓に大規模な館城を構えて移っている。現在は「奥山荘歴史のひろば」として復元整備されている。
鳥坂城(白鳥要害)(国指定史跡・奥山荘城館遺跡)
城氏が立て籠もった鳥坂城を中条氏が修復・拡張したといわれるが、城氏の時代の鳥坂城は現在の鳥坂山山頂にあったとする見方もある。白鳥要害は中条町羽黒集落から追分集落にかけての白鳥山にあり、山上には大きく五条の堀切がある。山麓の段丘上には、羽黒氏の館を接収して拡張した羽黒館といわれる館城を持ち、さらに要害入り口には東館と呼ばれる館城を持つなど、戦国期の緊張状態に際して大規模に拡張したことが伺われる。

古舘
中条町十二天集落のはずれ、常光寺の境内地がそれである。胎内川氾濫原の微高地に位置し、単郭方形の館を基本としつつも、屈曲や櫓台状の高まりを備えるなど、変形方形館といえる構造を持っている。遺構残存状態は良く、周囲の水堀(泥田堀)の一部も残っている。黒川氏の初期の居館ともいわれるが、「堀近江守一万石の居館なり」とする過去帳もあり、近世に入部した堀氏の一族の陣屋であった可能性もある。

築地氏館
中条町築地集落の砂丘上にあった館。中条氏の庶流、築地氏の居城であった。遺構の残存状態は悪く、土塁や堀の痕跡の一部が残るだけである。築地資豊は中条景泰が越中魚津城で戦死した後も中条氏をよく助け、新発田重家の乱に際しては上杉景勝方について、築地氏館が揚北の主力軍である本庄城主・本庄繁長や平林城主・色部長真軍の駐屯基地・補給基地となった。
小鷹宮境内地(国指定史跡・奥山荘城館遺跡)
中条町村松浜の県道沿い、ゴルフ場の傍にある。城館があったかどうかは不明だが、南条と中条との境界を表わした牓示(ぼうじ)石がある。弘長四(1264)年の沙弥道円譲状に「はまのさかいは村松の宮南の高松をかきるべし」とある。

金山城(国指定史跡・奥山荘城館遺跡)
加治川村金山集落一帯に広く残る。城氏の一族の前金山氏が要害としたとされる願文山城、三浦和田氏系の金山氏が築いたと見られる高館、カタツムリ山城など、小規模な城郭が密集する複合城郭群。城氏以来、400年近くにわたる築城の変遷が目で追える貴重な遺跡群である。かつての金山集落は塩津潟に面し、塩津潟の水運と大桜峠越えの陸運が交差する要衝であったとともに、南の加地佐々木氏領である加地荘との境目の城の役割も負っていたと思われる。
黒川城(国指定史跡・奥山荘城館遺跡)
黒川氏累代の居城であり、黒川村下館集落附近が居館、その背後の前要害山、奥要害山に詰めの山城を持つ。奥要害山のさらに峰続きには黒川氏も崇拝した蔵王権現遺跡があり、詰めの山城跡もある。黒川城の居館部の残存状態は悪く、一部の土塁や堀が残るだけであるが、胎内川扇状地の扇央、河岸段丘上に展開された大規模な館城であった。詰めの山城は前要害山、奥要害山にわかれ、尾根上の広大な範囲に遺構を残すが、概して曲輪の規模も小さく、居住性は低い。一部は昭和四十二(1967)年の羽越大水害の際に崩落してしまった。
その他、小規模な城館である倉田城、中世の墳墓である韋駄天山遺跡、野中集落の石塔婆群などが国指定史跡となっているほか、関沢集落の板碑群などの荘園遺跡がある。

【関連城郭】

江上館(新潟県北蒲原郡中条町本郷町/奥山荘歴史の広場・奥山荘歴史館) 場所

鳥坂城(新潟県北蒲原郡中条町羽黒) 場所

伝・古鳥坂城(新潟県北蒲原郡中条町羽黒〜黒川村下赤谷) 場所

古館(新潟県北蒲原郡中条町十二天) 場所

築地氏館(新潟県北蒲原郡中城町築地) 場所

倉田城(新潟県北蒲原郡中条町関沢) 場所

黒川城(新潟県北蒲原郡黒川村黒川) 場所

金山城(新潟県北蒲原郡加治川村金山) 場所

【その他】

小鷹宮境内地(新潟県北蒲原郡中条町村松浜)場所

韋駄天山遺跡(新潟県北蒲原郡中条町平木田)場所

臭水油壺(新潟県北蒲原郡黒川村塩谷/シンクルトン記念公園)場所

蔵王権現遺跡(新潟県北蒲原郡黒川村蔵王)場所

 

交通アクセス(江上館まで)

日本海東北道「中条」IC車10分。

JR羽越線「中条」駅徒歩20分。

周辺地情報

まずは奥山荘歴史の広場、奥山荘歴史館を訪ねて、基礎的な情報収集を。奥山荘関連以外では、御三階櫓復元工事中の新発田城、県北の名城村上城など。

関連サイト

このコーナーでは、DAN杉本さん作成のフリーの山岳景観シミュレーションソフト「カシミール3D」と国土地理院発行の数値地図(1/5万および1/20万)を使用しています。 

※この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図200000(地図画像)、数値地図50000(地図画像)および数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。

(承認番号 平15総使、第342号)

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)、「黒川村誌」、「胎内川の恵み」(胎内川沿岸土地改良区/非売品)、「黒川村発展のあゆみ」(片野徳蔵/非売品)、「日本城郭大系」(新人物往来社)、「ふるさと散策」(中条町教育委員会)、「中条町の文化財」(中条町教育委員会)、奥山荘歴史館配布資料、中条町教育委員会提供資料、黒川村教育委員会提供資料、現地解説板 ほか

参考サイト

 

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