本庄氏の支城、とは書いたものの、本庄城(村上城)とこの猿沢城では、もともとはこちらが本拠だったのでは?とも言われています。
戦国時代に勇将として名を馳せた本庄繁長は実はこの猿沢城で生まれ育っています。父の房長が伊達氏・中条氏らに本庄城を攻められ出羽に逃亡したところ、房長の弟である小河長資や鮎川氏らが謀反を起こして本庄城を不法占拠、慌てて本領に戻ろうとした房長は道中で急病により頓死し、その数日後にこの猿沢城で繁長が生まれた、とされます。繁長は小河長資らの専横に苦しめられながらも天文二十(1551)年、遂に長資を切腹させて名実ともに本庄氏の頭領になります。この頃猿沢城より本庄城に戻ったのでしょう。
永禄十一(1568)年の本庄繁長の乱においては、上杉軍の包囲網によって本庄城に入城できなかった武田信玄の使者が猿沢城で足止めを食らっていたらしく、この乱においても猿沢城が重要な拠点として機能していることが伺われます。
実際にこの猿沢城は実に規模が大きく、周囲の支城配置などから見ても本庄氏の家督もしくはそれに準ずる一族衆の本拠として相応しい規模と立地条件を兼ね備えています。大雑把に区分すると平時の居館部である山麓の根古屋地帯、その根古屋背面を守る「薬師山」の丘陵部要害、そのさらに上には「福館(福立)」の要害があり、さらに最高点に「サルクロ」の詰城があります。ひとつの根古屋に対して、丘陵部に一つ、山の上に二つの計三つの要害を持つという、非常に堅固な山城です。最高部、標高233mの「サルクロ」要害は非常にシンプルな山城で、時代的にはこれが一番古いかもしれません。ただし、主郭Tに対する東側の大手尾根筋、西側の搦手尾根筋ともに明瞭な虎口遺構があるのが出色です。越後の山城は規模や遮断系パーツの発展とは裏腹に虎口部分のパーツについては未発達なものが多いのですが、この猿沢城においては山の上に大手筋2箇所、搦手筋1箇所の明瞭な虎口遺構を持ちます。そのうち主郭大手側の虎口は大型の枡形虎口の前面にさらに土塁によって食い違いを設けたもの、また「福館」から「サルクロ」要害への経路上にある虎口も低い土塁による桝形虎口、搦手虎口は二本の土塁による食い違い虎口となっています。
「福館」はおそらく戦国期に取り立てられた前衛の要害で、これ単体でも城郭としてほぼ完結した縄張りを持っています。2箇所に畝状阻塞が認められるほか、二つのピークに挟まれた谷戸部分に大きな池(水源地)跡があるのが特徴です。
山麓部分には舌状台地を利用した城主の居館部、その北側に堤によって湿地となった谷を隔てて「薬師山」の小砦があります。舌状台地の居館部分([)は長軸100m以上に及ぶ圧巻の規模で、一部作業用の道路によって破壊されているものの、重厚な土塁や山との間の堀などがよく残ります。南側の神明宮との間には大規模な堀8がありますが、ここはどうやら水堀(泥田堀)であったようです。周囲は豊富な沢水と伏流水によって、今でも歩くことのできないほどの湿地が点在します。
さらに注目されるのが西側に残る方形の屋敷跡(\)の存在、そして集落の民家背後に延々数100mに渡って続く土塁のラインです。方形の屋敷跡は戦前に草競馬場として使われた時期もあったといいます。これは城主の旧居館なのか、家臣の屋敷なのか性格ははっきりわかりませんが、猿沢城の根古屋地区に関連する遺構であることは間違いありません。土塁のラインは猿沢集落を流れる「前ノ川」の北岸の民家裏手に断続的に続いており、これとは別に山麓に数箇所、土塁が点在します。これらが城郭遺構なのかシシ土手の類であるのかは分かりませんが、前ノ川を天然の水堀として考えるとこの北側に家臣団の屋敷地があったことが想定されます。現在の民家の配置などから想像すると、土塁のラインより北側(現在はほとんどが山林と畑)は家臣団屋敷、土塁の南側が町屋区画であった可能性もあり、重層的な構造を持つ中世城下町が存在した可能性や一族・家臣団の集住が行われていた可能性なども考えられそうです。
このように、山麓部の遺構や大規模な要害など、遺構の規模・質ともかなり水準の高い城郭であるにも関わらず、城域のほとんどが冬でも歩行困難なほどのヤブと潅木に覆われ、史跡指定も受けずに埋もれていくのは非常に惜しく感じます。きちんと整備すれば、おそらく近隣の平林城なみかそれ以上の遺構群を見られるはずなのですが。朝日村、新潟県の関係者の皆さん、地権者の皆さん、検討してもらえませんか?
[2007.01.07]
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猿沢城平面図(左)、サルクロ要害鳥瞰図(中)、福館鳥瞰図(右)
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