本庄氏の支城は壮大な山城だった

猿沢城

さるさわじょう Sarusawa-Jo

別名:

 

新潟県岩船郡朝日村猿沢

城の種別

山城

築城時期

不明

築城者

本庄氏?

主要城主

本庄氏?

遺構

土塁、堀、虎口、居館跡ほか

山麓居館手前の泥田堀<<2006年12月31日>>

歴史

築城時期は不明。仁平年間(1151-53)に本城若狭守が築き、その後石黒氏、佐々木氏、石井氏、大兵部氏らが在城、天文年間(1532-55)に本庄氏が在城した、あるいは貞治年間(1362-68)に本庄孫次郎が在城したなどとも伝わるがいずれも確証はない。永正年間(1504-20)頃に本庄氏によって築かれたと考えられる。

天文八(1539)年、本庄房長は上杉定実の養子を陸奥伊達氏から迎え入れることに反対し、伊達氏と鳥坂城主・中条藤資らに本庄城を攻められ出羽大宝寺氏を頼って逃亡した。その間に房長の弟に当たる小河長資が謀反を起こしたため本領に戻る途中、房長は病死した。直後に誕生した千代猪丸(繁長)は猿沢城に隠れ住んだという。天文二十(1551)年には本庄繁長が小河長資を切腹させて本領を回復し、前後して本庄城に復帰した。

永禄十一(1568)年に本庄繁長が武田信玄の調略に乗って謙信に叛旗を翻した事件では一年余りに渡って抗戦したが結局降伏・開城し、本庄繁長はこの猿沢城に蟄居し「雨順斎」を称した。

廃城の時期も明らかではないが、天正十九(1591)年に繁長が豊臣秀吉の勘気により一時改易・蟄居の身になった頃には廃城になっていたのではないかと思われる。

本庄氏の支城、とは書いたものの、本庄城村上城)とこの猿沢城では、もともとはこちらが本拠だったのでは?とも言われています。

戦国時代に勇将として名を馳せた本庄繁長は実はこの猿沢城で生まれ育っています。父の房長が伊達氏・中条氏らに本庄城を攻められ出羽に逃亡したところ、房長の弟である小河長資や鮎川氏らが謀反を起こして本庄城を不法占拠、慌てて本領に戻ろうとした房長は道中で急病により頓死し、その数日後にこの猿沢城で繁長が生まれた、とされます。繁長は小河長資らの専横に苦しめられながらも天文二十(1551)年、遂に長資を切腹させて名実ともに本庄氏の頭領になります。この頃猿沢城より本庄城に戻ったのでしょう。

永禄十一(1568)年の本庄繁長の乱においては、上杉軍の包囲網によって本庄城に入城できなかった武田信玄の使者が猿沢城で足止めを食らっていたらしく、この乱においても猿沢城が重要な拠点として機能していることが伺われます。

実際にこの猿沢城は実に規模が大きく、周囲の支城配置などから見ても本庄氏の家督もしくはそれに準ずる一族衆の本拠として相応しい規模と立地条件を兼ね備えています。大雑把に区分すると平時の居館部である山麓の根古屋地帯、その根古屋背面を守る「薬師山」の丘陵部要害、そのさらに上には「福館(福立)」の要害があり、さらに最高点に「サルクロ」の詰城があります。ひとつの根古屋に対して、丘陵部に一つ、山の上に二つの計三つの要害を持つという、非常に堅固な山城です。最高部、標高233mの「サルクロ」要害は非常にシンプルな山城で、時代的にはこれが一番古いかもしれません。ただし、主郭Tに対する東側の大手尾根筋、西側の搦手尾根筋ともに明瞭な虎口遺構があるのが出色です。越後の山城は規模や遮断系パーツの発展とは裏腹に虎口部分のパーツについては未発達なものが多いのですが、この猿沢城においては山の上に大手筋2箇所、搦手筋1箇所の明瞭な虎口遺構を持ちます。そのうち主郭大手側の虎口は大型の枡形虎口の前面にさらに土塁によって食い違いを設けたもの、また「福館」から「サルクロ」要害への経路上にある虎口も低い土塁による桝形虎口、搦手虎口は二本の土塁による食い違い虎口となっています。

「福館」はおそらく戦国期に取り立てられた前衛の要害で、これ単体でも城郭としてほぼ完結した縄張りを持っています。2箇所に畝状阻塞が認められるほか、二つのピークに挟まれた谷戸部分に大きな池(水源地)跡があるのが特徴です。

山麓部分には舌状台地を利用した城主の居館部、その北側に堤によって湿地となった谷を隔てて「薬師山」の小砦があります。舌状台地の居館部分([)は長軸100m以上に及ぶ圧巻の規模で、一部作業用の道路によって破壊されているものの、重厚な土塁や山との間の堀などがよく残ります。南側の神明宮との間には大規模な堀8がありますが、ここはどうやら水堀(泥田堀)であったようです。周囲は豊富な沢水と伏流水によって、今でも歩くことのできないほどの湿地が点在します。

さらに注目されるのが西側に残る方形の屋敷跡(\)の存在、そして集落の民家背後に延々数100mに渡って続く土塁のラインです。方形の屋敷跡は戦前に草競馬場として使われた時期もあったといいます。これは城主の旧居館なのか、家臣の屋敷なのか性格ははっきりわかりませんが、猿沢城の根古屋地区に関連する遺構であることは間違いありません。土塁のラインは猿沢集落を流れる「前ノ川」の北岸の民家裏手に断続的に続いており、これとは別に山麓に数箇所、土塁が点在します。これらが城郭遺構なのかシシ土手の類であるのかは分かりませんが、前ノ川を天然の水堀として考えるとこの北側に家臣団の屋敷地があったことが想定されます。現在の民家の配置などから想像すると、土塁のラインより北側(現在はほとんどが山林と畑)は家臣団屋敷、土塁の南側が町屋区画であった可能性もあり、重層的な構造を持つ中世城下町が存在した可能性や一族・家臣団の集住が行われていた可能性なども考えられそうです。

このように、山麓部の遺構や大規模な要害など、遺構の規模・質ともかなり水準の高い城郭であるにも関わらず、城域のほとんどが冬でも歩行困難なほどのヤブと潅木に覆われ、史跡指定も受けずに埋もれていくのは非常に惜しく感じます。きちんと整備すれば、おそらく近隣の平林城なみかそれ以上の遺構群を見られるはずなのですが。朝日村、新潟県の関係者の皆さん、地権者の皆さん、検討してもらえませんか?

[2007.01.07]

猿沢城平面図(左)、サルクロ要害鳥瞰図(中)、福館鳥瞰図(右)

※クリックすると拡大します

 

三面川氾濫原から見る猿沢城の威容。冬だと尾根上の遺構がクッキリ見えます。山麓の居館から「サルクロ」要害まで約900m、根古屋地区は500m×100mにも及ぶ大城郭です。中世山城とそれに関連する出城・居館・家臣団屋敷などがほぼ完存しています。

まずは神明社裏手に回ると、大規模な堀8に吃驚。これは空堀ではなく、湧き水を引き入れた水堀・泥田堀だったでしょう。これだけでも期待を裏切らぬ遺構です。 舌状台地に築かれた山麓の居館([)。平林城ほど複雑な構造ではありませんが、長軸100m以上に及ぶ大規模なものです。
居館は断崖になっている西側を除いて土塁が巡っています。高いところで2mほどもあります。 居館の北側に開口する虎口。裏には堀7があります。ここから要害へのアプローチルートがあるのかどうかは分かりません。
居館[と薬師山Zの間の谷戸は天然の大堀切。湿地帯となっていて、谷底は歩行不可能です。 唯一通行可能な土橋。土橋というよりも谷戸の堤を兼ねたもので、谷戸内外の水量を調節する機能もあったものと思われます。

居館から要害部への入り口を固める小規模な砦、薬師山砦(Z)。数段の桟敷段状の曲輪があります。

薬師山(Z)の虎口土塁。複数の桟敷段がありますが完全に藪化しています。

薬師山の帯曲輪は一部横堀(堀6)となっています。

薬師山要害とその上部の福館要害を分断する堀切5。しかし深さも幅もあまり無く、防御の意図は薄いような感じです。

「福館」は「副館」の意味か?標高120m程の山の突端にあります。写真は最高所のX曲輪。 切岸の下には畝状阻塞が。規模は大きくなく長さは2mほど、デコボコの高さは30〜50cmほどです。

福館の特徴は二つのピークの間に挟まれた谷に池(湧水地)跡があることです。庭を眺めていたというわけでもないだろうし、やはり飲料水の確保が目的ですかね。

さてここから長い尾根道となります。早速堀切1が現れます。深さは2mほどしかありません。

次の堀切2は城内最大級のものです。深さは6mほどあります。

さらにもう一丁、堀切3、こちらは2mほど。サルクロまでの尾根上の堀切はこの三つのみです。

尾根道を少し登ると、W曲輪の鋭い切岸が見えてきます。まともな道が無いので城塁を攀じ登るのが結構しんどいです。 W曲輪は尾根道の中ほどにある出丸のような位置づけの曲輪です。ここで尾根は二股に分かれます。

尾根上には小さな削平地が沢山。途中に枡形虎口状の門跡があります。しかし潅木だらけで歩きにくいなあ・・・。積雪は少ないですが滑り出すと止まらないので足に力を入れて、踏ん張りながら進みます。

フト振り返ると雪の上にはソレガシの足跡が点々と・・・。なんかいつかもこんなコトをやっていたような。しかし下山時にはこの足跡をトレースすれば良いので楽といえば楽でした。

ようやくV曲輪に辿りつきました。この手前は非常に急斜面です。また尾根が分かれるため下山時に間違いやすいポイントです。まっすぐ降りると痛い目に遭うので気をつけましょう(経験者)。

さらに急坂と潅木と雪と、凄絶な戦いの末にたどり着いたU曲輪。エチゴの潅木はほんとに手強い。もう足が攣りそうである。。。

堀切みたいに見えますが、サルクロ主郭の虎口です。枡形の手前にご覧のような土塁があり、二重の虎口になっています。

これも写真では「?」ですが、サルクロ主郭手前の枡形です。この地方で山頂に枡形を伴う山城はほとんど類例が無いでしょう。

サルクロ要害の主郭、Tに辿り着きました。所要時間50分、比高差の割に難行苦行の連続です。しかしここも潅木だらけで歩きにくい。夏はヤブ地獄です。

そのサルクロから木々の間に福館要害を見る。結構歩いてきたんだなあ、ということが実感できる景色です。

サルクロも尾根が三方向に分かれています。これは北側の尾根筋の曲輪。この下にも数段の馬蹄状の曲輪があります。 サルクロ搦手にあたる西側の土塁。土塁があるのはここだけです。この土塁は二重になっており、食い違い虎口を形成しつつ背後の土橋状の細尾根に繋がります。

西側尾根続きの物見のような高台から見る景色。左手に村上城本庄城)、右手の山は下渡城

山麓には歩行不能な湿地帯が広がっています。どこまでも手強い城だ・・・。

城下の集落背後に延々と延びる土塁。断続的に400mほど続きます。堀は伴っておらず高さも低いので防御力はなさそうですが、やはり城郭遺構と見ていいでしょう。 同じく城下集落の土塁。手前の畑の部分がかつての家臣団屋敷、向こう側は町屋区画であったか。

虚空蔵山方面へと続く山麓にも土塁が断片的に見られます。開口部は虎口ではなく後世の改変です。

居館[の西側に残る屋敷\。「城主の旧館」「重臣屋敷」などの見解がありはっきりしませんが、猿沢城根古屋に関連する遺構であることは間違いなさそうです。

 

交通アクセス

日本海東北道「中条」IC車40分。

JR羽越本線「村上」駅よりバス。

周辺地情報

朝日村には大葉沢城という素晴らしい戦国城郭があります。近隣では村上城平林城がオススメ。

関連サイト

 

 

参考文献

「図説中世の越後」(大家健/野島出版)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「朝日村史」

「村上市史」

参考サイト  

埋もれた古城 表紙 上へ