越後平野北部を南北に走る大動脈、国道七号線を北上すると、道は葡萄峠越えの山道に入ります。トンネルや谷あいの道を抜けると、そこには突然、荒々しい日本海の海原が拡がります。この山と海の接点に拡がるわずかな平地、大川の河口付近が越後最北の商業港、府屋の街です。現在は海沿いにも国道345号が通り、巨岩奇岩が天を突く名勝「笹川流れ」からは、日本海に浮かぶ粟島や佐渡島、夕暮れの刻限には日本海に沈む美しい夕陽を眺めることができます。この港町を見下ろす小丘陵に大川城はありました。
ここは春日山城のあった越後府中、今の上越市からはおよそ200km、もはや目と鼻の先は出羽国、よくもまあこんな遠くまで上杉の支配が届いたものだという気はします。越後っていう国は本当にデカイなあ。。。城主の大川氏は本庄城(のちの村上城)主、本庄繁長の配下として羽越国境の警備や、本庄繁長の出羽進攻にも従軍しています。あの第四次川中島合戦では、大川駿河守忠秀は海津城への抑えに従軍し、大川城から遥か離れた川中島の地に散ったといいます。多分、遠すぎて自分にはほとんど関係しなかったであろう信濃の地をめぐる争いで命を落とした大川駿河守。彼はその死をどう受け止めていたのか・・・。
大川城はこの地方としては大きい大川の流れに面した段丘上に館があり、その館の背後を包み込むように二つの小丘陵が控えています。この小丘陵「古館山」が「要害」にあたるのでしょうが、館と要害が一体化し、間の谷津をも取り込んだ、旧い小領主の館の形態をよく残しています。館の先端部分には明瞭な堀跡が見られ、また後方の古館山との間には豊富な湧水による堀状の地形が見られます。古館山には二つのほぼ同標高の大きな曲輪があり、海に面した方の曲輪には高さ3mほどの土塁があり、ここが主郭であったと思われます。この主郭の背後には大きな堀切があり、堀の先は天然地形を用いた深い竪堀となって山麓に達します。背後の曲輪には土塁と、櫓台のような土盛があります。この二つの曲輪を中心に、腰曲輪や帯曲輪が取り巻いていて、規模こそ大きくはないものの整った遺構が見られます。ただ、基本的にまったく整備されておらず、館跡も含めてかなりの藪になっているため、館先端の堀を除き、遺構の見学には適していません。そう思って冬に行ったときには積雪で遺構がイマイチよくわからず、出直した5月にはもうかなりの藪・・・。尾根続きには詰めの山城である高館山の要害などもあるらしいのですが、ちと見学は厳しい状況だったのでパスしました。まずまずの遺構保存度を保っているだけに、なんとか史跡指定と見学路設置を望みます。