金山城(金山城館遺跡)はひとつの城ではなく、この地に土着した三浦和田氏(中条氏)の庶流である金山氏が鎌倉期から戦国期まで、約三百年に渡って築き上げてきた城館群です。江上館や鳥坂城などとともに「奥山荘城館遺跡」のひとつに指定され、国指定の史跡となって保護されています。「中世荘園を学びたいならまず奥山荘を見よ」といわれるほど、奥山荘には多数の城館や墳墓、文書、石塔婆などが残ります。それらが単に点在するだけでなく、点と点を結んでいくと、この「奥山荘」という壮大かつ荘厳な中世荘園の姿が見えてくるところが貴重なところだと思うのですが、この金山城館遺跡などはその最たるもので、ひとつひとつの規模はそれほど大きくはないものの、小規模な城館が肩を寄せ合うように「ムラと城」を象る様子が手にとるようにわかり、いわば中世という世界をギュッ!と濃縮したような雰囲気を味わえます。かつてこの金山郷は、巨大な沼地であった「塩津潟(紫雲寺潟)」に面した微高地で、背後を櫛型山脈に守られ、水上と陸上双方の交通の要衝だったことや肥沃な農地を抱えていたことから、栄えたと同時にときの実力者、権力者にも振り回されてきました。中条氏は時茂の代に三人の孫に分割相続され、宗家の中条氏(江上館、鳥坂城参照)、胎内川以北の北条を所領とする黒川氏(黒川城参照)、関沢氏の大きく三つに分かれ、そこからさらに金山氏、羽黒氏、築地氏など多くの庶流が生まれます。この金山氏が居城としたのがこの金山城周辺の城館群です。前述の通り、塩津潟という広大な沼沢地を控えている上に、南隣の加地庄との境目にもあたる、非常に重要な地帯でした。
遺構を大きく分けると、最高峰259mの願文山(宝塔山)山上に築かれた古要害である「願文山城」、平時の居館であった「館ノ内」、その居館を守る要害であった小丘陵上の「高館」、金山集落の南端を守る小丘陵を要塞化した「蝸牛山城(かたつむりやまじょう)」ほかの城館群に分類されます。このうち願文山城は、三浦和田氏系の中条氏・金山氏が入部する以前の城氏一族(前金山氏)時代の要害といわれ、もっとも古いものと考えられています。ここは鎌倉幕府と後鳥羽上皇が干戈を交えた「承久の乱」の口火を切った抗争の場所といわれています。これに対して山麓の遺構群は比較的規模は小さいものの、戦国期の技法を取り入れた技巧が見られるのが特徴で、高館の螺旋状に主郭を取り巻く桟敷段や、かたつむり山城の山腹の緩斜面を補う長大な横堀などに、小城砦とは思えない、意外なほどの技巧に触れることができます。このように、「中世」といわれる時代の遺構を横断的に眺めることができる、非常に貴重な場所なのです。なにより、中世城郭というとどうしても大名、国人領主クラスの居城ばかりが有名で注目もそちらに行ってしまうのが普通と思いますが、この金山城は「中条氏の庶流」という小領主の城館遺構で、おそらく兵農分離も進んでいなかったであろう時代の「在地小土豪」の良好な遺構を目の当たりにできる、という意味では、他に類を見ないものと思いました。
見学当日は抜けるような青空で、気温も高くなく絶好の見学日和でしたが、Uターンの新幹線の時間の関係で残念ながら願文山城には登れませんでした。それでも山麓の城砦群だけでも、期待を大きく上回る素晴らしさで、ぜひ近隣の中世城郭研究家のみなさんには脚を運んでもらいたい場所です。
なお周囲には、丘陵と沼沢地を生活の場とした縄文・弥生期の遺跡なども多く残るようで、古くから居住に適した場所だったことが想像できます。また、まだまだ研究は始めたばかりですが、この金山郷周辺の集落の様相は、沼沢地や小丘陵を要害とした、いわゆる「城砦集落」であった可能性も非常に高いのではないかと思います。背後の櫛形山脈にも、城氏の時代のものといわれる小規模な山城跡が散在するようですが、それらのうちのいくつかは武士の城ではなく、「ムラの城」だった可能性も十分にあるのではないでしょうか。まだあまり根拠のある仮説ではないですが、今後の研究テーマとして取り上げていきたいと思います。
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中世を満喫する素晴らしい城館群。右奥の高峰が願文山城、手前の小丘陵がカタツムリ山城、左の丘陵が高館。館ノ内は高館南麓の谷津にあります。 |
高館は金山集落の北側、墓地のある小丘陵。背後に願文山を控えています。戦国期の要害として整備されたものと思われます。 |
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高館の円い山容に沿って、細長い桟敷段が螺旋状に積み重なっています。 |
高館の中腹にあった池。豊富な伏流水が至る所から湧き出ており、丘陵上でありながら湿地のような地勢になっています。 |
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「金山城址」「高館跡」の石碑が建つ楕円形の主郭。戦国期にはここが金山城の主たる要害として位置付けられていました。 |
高館背後の土塁。この斜面下には三段ほどの腰曲輪(桟敷段)があって、背後の尾根続きから防御しています。 |
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館ノ内は高館南麓のやや奥まった微高地です。土塁跡や堀跡があるらしいのですがわかりませんでした。背後の高峰が願文山。 |
カタツムリ山城は小さな丘陵に過ぎませんが、驚くほど巧妙な戦時要塞でした。「農村公園」付近に案内板と登城路があります。 |
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カタツムリ山城の主郭。主郭といっても、ごく狭い平坦地に過ぎません。かつては塩津潟の湊を見下ろす重要な砦だったことでしょう。 |
かなりビックリした横堀。やや傾斜の緩い南西の斜面を補うように、長大な堀がありました。堀には段差があり、堀底の通行を困難にしています。 |
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おなじくカタツムリ山城の堀。このあたりの仕掛は戦国中期以降の緊張状態を反映したものと言えるでしょう。 |
その横堀は城道付近でご丁寧にも屈曲がつけられ、竪堀となって山腹を降りていきます。小なりといえども、なかなか巧妙ではないですか! |
時間の関係で見学はここまで。う〜ん残念!次回はぜひ、願文山城への登頂(注:行って来ました)と、細かい遺構のチェック、周辺の集落(とくに旧街道沿いの古い集落)の見学をしなくては! |