東信濃の戦国史を紐解くと必ず出てくる大井一族。佐久・小県のあちこちに大井姓の武将がいてかなりややこしいのですが、ここではちょっと整理をしてみたいと思います。
この大井氏は甲斐源氏・小笠原氏の支流にあたり、鎌倉時代初期に小笠原氏が信濃に入国すると同時期に佐久大井荘を与えられ土着したのが始まりとなります。同じ地域にはやはり小笠原系の伴野氏がいてライバル関係にありましたが、伴野氏が「霜月騒動」で全滅に近い打撃を受けたことで(伴野氏館の頁参照)、結果的に大井氏が勝者として東信濃に君臨することとなります。南北朝期には関東へと向かう南朝軍一万に大井城を攻囲され善戦むなしく落城、などということもあったようです。
室町時代にはその地理的な関係から、あるいは大井氏が関東にも所領を持っていた関係か、関東の政治情勢とも密接な関連を持ち、大井持光はかの「永享の乱」で滅んだ関東公方・足利持氏の遺児を匿い、「結城合戦」を落ち延びた持氏の末子、永寿王丸(万寿王丸)を匿っています。この人物はのちに関東公方が再興された際に足利成氏と名乗る人物です。結城合戦の際には大井持光も結城城への入城を目指したそうですが、碓氷峠において関東管領軍の阻止にあい、結局は合流できなかったといいます。
この頃が大井氏の全盛時代でしたが、関東公方と幕府の対立を背景に隣国甲斐の武田氏とたびたび戦い、また同じ佐久のライバル伴野氏と抗争を繰り返すようになり、伴野氏が武田氏の支援を求めたこともあり、後年の武田氏による佐久侵攻の伏線が布かれて行きます。そして室町中期の文明年間、伴野氏との争いで決定的大敗を喫してしまい、大井政朝が一時は生け捕りにされるという恥辱を味わいます。さらに弱体化したところを村上政清に攻撃され、大井氏の宗家にあたる岩村田大井氏は事実上滅亡、戦国時代には岩尾・小諸・長久保などの各地の庶家がそれぞれに細々と続いているような状況でした。これらの大井一族にはもともとの小笠原氏系ではない、依田氏系の大井氏も並存していたとされ、少々ややこしいところです。
武田信玄による佐久侵攻の際には長窪城を本拠とする大井(長窪)貞隆が事実上の大井氏惣領的な位置づけにあったとされます。長窪城は信玄により落とされ、貞隆は甲府に幽閉の後死去、最後まで抵抗したのは内山城に拠る大井貞清、貞重父子、小室城の大井高政、岩尾城の岩尾弾正忠行頼などですが、いずれも降伏・開城を余儀なくされ、実質的に武田氏の他国衆として再編されていきます。大井城そのものは宗家にあたる岩村田大井氏歴代の居城という位置づけになりますが、村上氏に敗れてからは「再び立たず」とされており、再建されなかったのかもしれません。ただし信玄の佐久侵攻に際して「高白斎期」の天文二十(1551)年八月の項に「岩村(田)の鍬立」とあるので、武田氏による再興もあったのかもしれません。なお近世末期の岩村田藩による岩村田城とは別モノです。
その大井城は佐久の中心市街地である岩村田集落の東端、湯川が織り成す20mもの垂直な断崖の上に位置する広大なお城でした。主郭部は「王城」、二ノ丸にあたる南側の地区は「黒岩城」、外郭は「石並城」と呼ばれますが、実質的にはひとつの大きなお城です。現在は「王城」部分がその名の通り王城公園になっているほかはほとんどが宅地、市街地、農地と化しており、主郭部も含めて遺構は明瞭ではありません。一部空堀状の地形もありますが、この地方に多い段丘上の田切り地形との区別も難しく、明瞭な遺構があるのかどうかは不明です。「王城」にはいつの時代から生き続けたものか「王城の大ケヤキ」という大木があります。もしかしたら大井一族の盛衰や、武田氏による苛烈な佐久侵攻を見てきた木なのかもしれません。
[2007.06.17]