足弱取ル事数ヲ不知

小岩嶽城

こいわたけじょう Koiwatake-Jo

別名:小岩岳城、古厩小屋

長野県安曇野市穂高有明

(小岩嶽城址公園)

城の種別

山城・館城複合

築城時期

不明(戦国期?)

築城者

仁科(古厩)氏

主要城主

古厩氏

遺構

曲輪、堀切、土塁

戦没者の供養塔<<2005年09月17日>>

歴史

築城時期は明らかでないが、天文十九(1550)年の井口刀帯の書状に「こゆわたけ」と見える。仁科氏の一族が南方の守備のために築いたものと思われ、のちに仁科氏庶流の古厩氏の管理となった。

天文二十(1551)年十月十四日、村上義清は仁科氏の属城であった丹生子城を攻め落とした。この報を受けた武田晴信(信玄)は十月十五日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣、二十日に深志城に入り、二十四日小笠原軍の抵抗拠点となっていた平瀬城を攻撃、城将平瀬八郎左衛門以下二百四名を討ち取り平瀬城は落城、続いて十月二十八日に小岩嶽城を攻めたが落ちず、宿城に放火して引き揚げた。

天文二十一(1552)年八月、武田晴信は小岩嶽城を攻撃、八月十二日に落城し、城主の古厩盛兼は自刃し、武田軍は首級を五百以上取り、数を知れないほどの捕虜を生け捕った。

古厩氏はその後武田に降伏・出仕し、古厩盛隆は永禄四(1561)年の第四次川中島合戦にも参加している。

天正十(1582)年三月の武田氏滅亡、同年六月二日の本能寺の変の後、小笠原貞慶が旧領回復に乗り出し松本城に入った。古厩氏は小笠原氏に従っていたようであるが、天正十一(1583)年二月十三日夜半、古厩氏(因幡守盛勝か)は「逆心」を企てたとして松本城内で成敗され、子息(盛隆か)は逃亡した。同二月十六日の小笠原貞慶の犬甘半左衛門宛書状によれば、同時期に成敗された塔原氏は「古厩小屋(小岩嶽城)」に兵糧を運び込み、塔原城には一俵の米もなかったこと、兵糧は全部松本城に移し、小屋を焼き払った、と報告されている。小岩嶽城はこの時点で廃城になったと思われる。

小笠原長時を塩尻峠の合戦で破り、さらに本拠の林城からも追放した武田晴信(信玄)は、佐久・小県での大井氏や村上義清らとの対戦と並行して、筑摩・安曇郡の小笠原残存勢力掃討戦を展開しています。松本盆地の西側、北アルプスの東山麓附近でも小笠原氏残党や仁科氏一族らと攻防戦を繰り広げていますが、このうち最も凄惨を極めた戦いは小岩嶽城の攻防戦であったでしょう。天文二十(1551)年10月、まず武田軍は小笠原の領土回復最前線であった平瀬城を猛攻の末攻め落とし、城主平瀬八郎左衛門は自刃、討ち取る頚の数は二百四を数えたといいます。さらに武田軍はこの小岩嶽城をターゲットにします。守るは仁科氏の一族、古厩盛兼(小岩嶽図書とも)、このときの攻撃では小岩嶽城は陥ちず、武田軍は宿城(城下町)に放火して引き上げています。

しかし翌天文二十一(1552)年、ふたたび武田軍が来襲します。この間信玄は、母である大井夫人の逝去、今川義元から嫡男義信への婚約交渉など、忙しく動き回っています。7月27日にはじまった城攻めは8月12日、古厩盛兼の自刃に至ります。この経緯を『妙法寺記』(『勝山記』)では「討取頚五百余、足弱取事数ヲ不知候」、五百人を討ち取り、数え切れないほどの足弱(老人や婦女子)を生け捕った、とあります。たったこれだけの記述ではありますが、いかに凄惨な光景が繰り広げられていたか、伝わってくるようです。ちょうど佐久平定戦における志賀城の凄惨な落城劇を思い起こしてしまします。この『妙法寺記』は、武田信玄の信濃侵攻とそれに伴う多大な犠牲や国内の疲弊を嘆く記述が多いのですが、その中でもこの短い記述の中に秘められた嘆きというか、憤りのようなものまで感じてしまいます。

小岩嶽城平面図

※クリックすると拡大します

小岩嶽城は大雑把に言って、富士雄山の東裾、比高250mの「城山」山頂付近に築かれた山城部分、比高20m〜50m前後の段丘上に築かれた大規模な根古屋部分、そして城下町を取り込んだ宿城に分かれます。このうち山上の要害部分は非常に面積が小さい上、遺構の規模から見てもせいぜい物見や狼煙台程度にしか使われていなかったらしく、戦国期の中核部分は根古屋部分に移っていたようです。この部分は「根古屋」というよりも、山麓の居館を中心に家臣団屋敷などを配置し、それぞれ独立した防御力を持たせた「城」そのものであり、越後などでよく見られる、根古屋が極端に発達して独立城砦化した「館城」の様相を見せています。この館城部分は現在、小岩嶽城址公園となっており、模擬門が建てられていたり、小高い丘の上に櫓を模した展望台があります。館城の主郭部分には 神社が建っていますが、それ以外の部分は残念ながら公園とは名ばかりの一面のヤブになってしまっています。所々で堀や土塁なども残っていますが、後世の改変も激しく、遺構の状態は必ずしも良くはありません。ただ、山麓の根古屋部としては非常に大規模で堅固なものであったことはよくわかります。

山上の要害へは南側の尾根より取り付きましたが、岩だらけの急峻な尾根を直登しなければなりません。しかもこのあたりは一帯がキノコ山になっていて、尾根筋の道以外はロープや鉄条網に守られており、自由に歩くことは出来ません。とくに狭い尾根筋で両側を鉄条網に挟まれる場所もあり、かなり危険です。その割に遺構は大したことがなく、主郭さえも鉄条網越しにしか眺めることが出来ません。残念ながら見学に適しているとは言えず、こちらは敢えて見なくてもいいでしょう。宿城の方は集落の中を探せば遺構らしきものもあるかもしれませんが、こちらは敢えて探してはいません。

[2005.11.09]

北アルプスを背後に控えた小岩嶽城。城山そのものは城下集落から比高250m、痩せ尾根の急峻な岩山です。 小岩嶽城址公園入口あたりの風景。背後は城山。戦国期にはこの公園になっている「館城」部分が中核になっていたようです。
駐車場の脇に建つ模擬門。こういうのは結構好きなのですが、どうも公園そのものはヤブが多いような。。。 館城外縁にあたる堀2。南側で大きく屈曲しています。土塁は無いように見えました。
館城内部の曲輪。といっても後世の農地改変や、場所によって土取りなども行われているため全体像はイマイチ掴みづらい。全体に曲輪は自然の傾斜を残しており、完全に削平されているのは主郭のみという感じです。 その主郭入り口に横たわる堀と土塁。虎口はかなり改変されており旧状はよくわかりません。土塁には石積みもあったらしいですがヤブがひどくて見逃しました。
主郭虎口附近。本来は左手に枡形があったようなのですが、かなり改変されていてどこまで旧状どおりなのかわかりません。 その主郭虎口から北に伸びる堀底状通路。しかしこれも車道に伴うものかも。。。
神社が建立されている主郭。この上にもう一段曲輪があり、櫓台状の高まりもありますが、この先は立ち入り禁止です。 主郭の一角にある「小岩嶽城戦没者各々霊位供養塔」。凄惨な戦の結末に合掌。感じる人は何かを感じてしまうかも。。。。
城址公園南側の尾根先端にある模擬櫓。この平場は曲輪ではなく、櫓設置のために削ったように見えます。 城山尾根上には巨岩がゴロゴロしています。これらの岩によって尾根の狭い場所を通らねばならず、まさに天然の要害といえます。
途中の見晴らしの良い尾根から見る安曇野の広がり。ちょっとガスっていますが、天気がよければ正面に光城や塔原城が見えるはずです。 これが城山山頂の曲輪。といっても狭い平場でしかなく、しかも有刺鉄線が張り巡らされていてイマイチです。この山は敢えて登るほどの価値は無いような・・・。
一応堀切と解釈した堀切4。といっても自然の大岩と地形なりの鞍部を利用しただけです。 一応明瞭な堀切3。最大5mほど。これも自然の岩を利用しただけのものですが、竪堀が長く続いていました。

 

 

交通アクセス

長野自動車道「豊科」ICより車15分。

JR大糸線「穂高」駅から徒歩30分。バス等は不明。  

周辺地情報

松川村と大町市の境にある西山城、堀金集落背後の岩原城などが秀逸です。なおこの近辺の山は止山(入山禁止)区域が多いので山に入る前に地元の人に確認を。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

「信濃の山城」(小穴芳実編/郷土出版社)

「臨時増刊 歴史と旅・図説武田信玄の世界」(秋田書店)

現地解説板

参考サイト

信玄を捜す旅 武田家の史跡探訪 

 

埋もれた古城 表紙 上へ