武田の大軍に抗戦50日

福与城

ふくよじょう Fukuyo-Jo

別名:箕輪城、鎌倉城

長野県伊那市福島

城の種別

平山城(崖端城)

築城時期

不明

築城者

藤沢氏

主要城主

藤沢氏

遺構

曲輪、堀切

空堀越しに見る主郭<<2005年05月01日>>

歴史

築城時期は明らかではないが、諏訪氏の一族である藤沢氏の居城とされる。また中先代の乱の際に北条時行が立て籠もった大徳王寺城が藤沢城であるという説もある。

戦国期には高遠氏の配下で「箕輪次郎」「箕輪殿」と呼ばれた藤沢頼親が在城していた。天文十一(1542)年九月、高遠頼継が杖突峠を越えて諏訪領に乱入したが、宮川橋の合戦で武田氏が勝利し、高遠頼継は大損害を出して撤退、武田晴信(のちの信玄)は守矢頼真、諏訪満隆らを案内人とし、駒井高白斎らを箕輪に進ませて福与城に迫った。その結果藤沢頼親は降伏し、九月二十八日には諏訪の晴信の陣所に出仕した。天文十三(1544)年九月、諏訪西方衆の叛乱が勃発したが武田氏により鎮圧された。その直後、藤沢頼親は武田氏から離反、晴信は十月十六日に甲府を出陣、二十八日には有賀に着陣した。武田軍の先発隊は十月二十九日、藤沢方の荒神山城に向けて陣取り降伏を勧告したが受け入れられなかったため、近辺を放火した。十一月二日には福与城の天竜川対岸附近の松島で両軍が交戦した。このときは武田軍は福与城を落とすことができず、十一月二十六日には撤退した。この状況に高遠頼継は十二月八日、再び諏訪に乱入して附近を放火した。

天文十四(1545)年四月十一日、晴信は高遠頼継、藤沢頼親を討つために甲府を出陣、四月十五日には杖突峠に陣取り高遠城攻撃の態勢に入った。これを見た高遠頼継は四月十七日、高遠城を捨てて逃亡、十八日には武田軍が高遠城を占領した。逃亡した高遠頼継はのちに武田氏に降伏して出仕、高遠城への在城を許されたが、天文二十一(1552)年に甲府に召還され切腹させられた。武田軍は四月二十日に高遠城を出発し福与城に攻め寄せたが、籠城軍の反撃も激しく武田軍の鎌田長門守らが戦死している。藤沢頼親の要請を受けた府中林城の小笠原長時は援軍を派遣し竜ヶ崎城に陣取り、実弟の鈴岡城主・小笠原信定にも援軍を要請、信定は伊那の土豪を糾合して伊那部に陣取った。武田軍は五月二十一日、今井信甫らが竜ヶ崎城を攻撃、さらに今川義元からの援軍を迎え入れ、六月には竜ヶ崎城を陥落させて小笠原長時の援軍を撤退させた。藤沢頼親は武田氏の親類衆である勝沼相模守信元、穴山伊豆守信友、小山田出羽守信有らを仲介に和睦交渉を行い、六月十日には降伏、福与城を開城した。武田氏は福与城を接収し六月十一日にこれを焼き払った。

天文十七(1548)年二月十四日の上田原合戦で武田軍が村上義清に敗れると、義清は小笠原長時や降伏していた藤沢頼親らに連携を呼びかけ、頼親は再び武田氏を離反したが、七月十九日の塩尻峠(勝弦峠)の合戦で小笠原長時が大敗、九月八日には藤沢頼親が穴山信友を通じて再出仕の申し入れがあり、晴信はこれを赦して判物を与えた。天文十八(1549)年七月十五日には晴信が「午方に向かい箕輪の城御鍬立」を行ったが、これが福与城の改修を指すとされる。藤沢頼親はその後武田氏を追放され放浪していたが、天正十(1582)年三月、武田氏が滅亡すると福与城に復帰し、その後田中城を築いて居住していたが、本能寺の変の後の天正壬午の乱において北条氏に属したため、高遠城主の保科正直によって攻め滅ぼされた。

武田信玄の上伊那攻略において、要衝であった高遠城はあまりにもあっけなく攻略されてしまったのですが、ここに約50日間に渡って激しく抵抗したお城がありました。この福与城です。城主は高遠氏と同じく諏訪一族である藤沢頼親。この福与城攻防戦においては、後詰として頼親の妹婿にあたる小笠原長時が竜ヶ崎城に陣取り、さらに南からは長時実弟の鈴岡小笠原信定が伊那衆を率いて伊那部(春日城か)に陣取ります。しかし長時の後詰軍は板垣信方らに蹴散らされ、援軍の望めぬ福与城もとうとう開城を余儀なくされ、火をかけられてしまいます。結果としては藤沢頼親の敗北でしたが、それでもこの時期、50日にも渡って武田軍に抗い続けたのはなかなか立派なものです。頼親は一応武田氏に降伏して飫富虎正の相備えとして従いますが、実は反武田の影のフィクサー的存在で、裏では諏訪西方衆の反乱の糸を引いていたり、塩尻峠合戦以後は小笠原方に寝返って一説に中塔城籠城に加わったりしていたようです。信玄も藤沢頼親のことはなかなかに食えぬ男と思っていたようで、誅される事は無かったものの遂には追放されて零落した、とのことです

この攻防戦においてもうひとつ注目されるのが、寄せ手の武田軍の中に、北条氏康からの援軍と今川義元からの援軍がそれぞれ300騎ずついたことです。武田・北条・今川による、いわゆる「甲相駿三国同盟」は天文二十三(1554)年の成立とされますが、この福与城の攻防に際してすでにその原型ともいうべきカタチが姿を表しています。当時、北条氏康と今川義元は駿東の領有を巡って未だ交戦中(第二次河東一乱)の時期でありました。しかし、武田=今川の同盟はすでに成立しており、武田=北条の同盟も模索されていた時期でもありました。こうした関係を背景に、のちに三国同盟が成立するのですが、この時点では敵同士であった北条と今川が武田という仲介役を通じて同じ陣営に属しているのは興味深いことです。

福与城概念図

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福与城は武田の属城となり、信玄立会いで鍬立てが催されような記録もありますが、個人的には信玄が鍬立てを行ったのは福与城ではなく天竜川対岸の箕輪城もしくは松島城ではなかったか、とも思います。福与城のことを箕輪城とも呼ぶので、このあたりは少し話がこんがらがっている気がします。現状残る遺構は武田氏の改修が入ったことを感じさせるものはあまりなく、どちらかというと典型的な伊那の河岸段丘上の城郭という気がします。勝手な推測をすれば、武田氏直轄の拠点城郭としての機能は高遠城に集約され、上伊那の在地土豪は武田の軍制下で新たに取り立てられた箕輪城や松島城に在番衆として置かれていたのではないかと考えています。

福与城の西は天竜川が自然の要害を為し、南北は崖に近い急斜面を持っていますが、背後は幅の広い段丘となっている上比高差もあまりなく、現在の目で見ると天険とは言い難いものがあります。そもそも伊那の河岸段丘は先端が緩く下っている地形が多く、台地続きの処理は必須ですが、現状では外側の堀などは埋められてしまったものか、よくわからなくなってしまっています。主郭は台地先端ではなく先端から堀を隔てたTの曲輪で、ここは他の曲輪よりも3mほど標高が高くなっています。東側に神社がありますがここは櫓台だったものと思われます。全体に農地化などによって堀が埋められていたり、エッジが丸くなってしまったりしていて、往時の縄張りを完全に再現するのはなかなか難しいお城ではあります。今の目で見ると、とてもとても武田の精鋭相手に50日も奮戦したお城には見えないんだよなあ・・・。

[2007.07.07]

天竜川に面した比高30mほどの台地先端が福与城。天竜川を天然の堀に見立てているとはいえ、50日も抗戦したとは思えぬ貧弱な地形です。 東側の台地続きから見る福与城。台地続きの方が標高が高く、要害性は悪そうに思えるのですが、やはり城兵の士気が高かったんでしょうか。
主郭と「南城」を分断する堀2。主郭は一段高い台地上にあるので堀はかなり高さがあるように見えます。 主郭から見下ろす堀2。トンネルがぶち抜かれた土橋につい目が行ってしまいます。
主郭は良く整備されています。東側のみわずかに土塁が残っています。 主郭東側の神社と忠魂碑の立つ場所は櫓台であったように見えます。
北城との間を隔てる堀1を上から。主郭には明瞭な虎口らしき場所がありませんが、この道がそうだったのでしょうか。 北城から見る堀1。かなり大規模な堀ですがエッジが丸くなってしまい、本来の規模がよくわかりません。
主郭から見るV曲輪。台地上の曲輪配置は主郭以外は散漫な印象で、曲輪の序列がよくわかりません。 そのV曲輪。現状ではここが一番見晴らしが得られます。
V曲輪から見る伊那盆地。こういう地形を広谷、というそうです。ちょっとガスって見晴らしはイマイチでした。 堀2の西側はヤブになっていますが、竪堀となり深い沢に繋がっています。
土橋トンネル。そもそもここに土橋があったかどうかも怪しいものですが・・・・。 南城はすっかり畑になっていて明瞭な遺構らしきものは見当たりませんでした。台地続きの防衛線がちょっと貧弱すぎる気がしますが、どうなんでしょうか。

 

 

交通アクセス

中央自動車道「伊那」ICより車15分、JR飯田線「北殿代」駅より徒歩20分。

周辺地情報

高遠城は基本アイテム。福与城周辺では上の平城、箕輪城などが比較的遺構をよく残しています。

関連サイト

 

 

参考文献

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「信州の城と古戦場」(南原公平/令文社)

「戦史ドキュメント 川中島の戦い」(平山優/学研M文庫)

別冊歴史読本「武田信玄の生涯」(新人物往来社)

現地解説板

参考サイト

 

 

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