築城時期ははっきりしないが、豊嶋氏の一族である志村氏の築城といわれる。
康正元(1455)年、下総千葉氏の内紛で、千葉氏庶流の馬加城主・馬加氏は亥鼻城を陥とし、千葉氏嫡流の千葉介直胤・胤宣父子は下総香取郡の多古城・志摩城に追い詰められ自刃、千葉介は馬加氏によって奪われた。直胤の弟・胤賢も小堤城で自刃した。その子実胤・自胤は市河城(国府台城)で馬加氏に抵抗したがこれも陥とされ、扇谷上杉氏を頼って武蔵に逃れた。太田道灌は千葉氏嫡流の二人を庇護し、実胤は武蔵石浜城に、自胤は赤塚城に置かれて「武蔵千葉氏」となった。志村城には赤塚城の支城として、自胤の一族の千葉隠岐守信胤が入った。
大永四(1524)年に北条氏綱に攻められ落城、以降、天正十八(1590)年の小田原の役までは北条氏の傘下に入った。