武家政権誕生前夜に散る

衣笠城

きぬがさじょう Kinugasa-Jo

別名:

神奈川県横須賀市衣笠町

 

城の種別

山城

築城時期

康平年間(1058-65) 

築城者

三浦氏

主要城主

三浦氏

遺構

曲輪(土塁、堀切、井戸ありと言うも不明)

夏草茂る衣笠城本丸 <<2002年08月10日>>

歴史

天喜四(1056)年から康平六(1063)年にかけて、朝廷と俘囚(奥州安倍氏)が闘った「前九年の役」で軍功があった三浦為通が源頼義から三浦郷の地を与えられ、康平年間(1058-65)に築かれたと伝えられる。

治承四(1180)年八月、伊豆蛭ヶ小島に幽閉されていた源頼朝は伊豆目代の山木判官兼隆の館を襲いこれを討ち、平家政権に対して叛旗を掲げた。この時、衣笠城の三浦大介義明・義澄父子は頼朝の挙兵に呼応し、衣笠城を出撃したが、酒匂川の氾濫によって行軍を阻まれ、その間に頼朝ら三百の軍勢は石橋山で大庭景親ら平家軍三千と戦って敗れ、安房龍島へ逃れた(石橋山合戦)。そのため義澄らは衣笠城に退いたが、畠山重忠、河越重頼、江戸重長ら三千に囲まれた。義澄らは義明の厳命により頼朝を追って安房に渡り、衣笠城に残った義明は激戦の末、自刃したとも、城下で江戸重長の軍勢に討たれたともいわれる。

鎌倉時代には三浦氏は有力御家人として勢力を持ったが、鎌倉幕府の権力強化を図る執権北条氏と対立関係を生じ、三浦氏は衣笠城を大拡張した。しかし宝治元(1247)年、三浦泰村一族は五代執権北条時頼、安達景盛らによって攻められ、一族郎党五百余人が自刃し、三浦氏は滅亡した(宝治合戦)。この時、三浦氏の一族でただ一人北条方に味方した佐原盛時は三浦介を嗣ぐことを許されたが、領地は三浦半島の南部に限られたため、衣笠城は廃城となったという。その後の佐原盛時の居城はのちの新井城であったとする見方もある。

鎌倉幕府創設前夜の治承四年、伊豆に挙兵した源頼朝に呼応して衣笠城に兵を挙げた三浦大介義明。しかし、畠山重忠をはじめとする軍勢に攻め寄せられ、老齢の義明は一族を衣笠城から落とし、ひとりこの城に残り壮烈な自刃を遂げます(あるいは城下で自刃とも)。享年八十九歳。逃れた嫡子の義澄は江戸湾で北条時政軍と合流、安房に逃れた頼朝に合流し、上総介広常、千葉介常胤らとともに鎌倉幕府創設に多大な寄与をしました。義明は頼朝に大きな期待をかけながらも、その天下を眼にすることなく、そして「武家による、武家のための政権」の世を見ることなく死んでゆきました。なんとなく、関ヶ原合戦前夜の伏見城での鳥居元忠を思い起こします。三浦氏は頼朝の政権下で重く用いられますが、やがて繰り返し悲劇が訪れます。幕府内部の権力争いが表面化した和田義盛の乱(和田合戦)では同族が血で血を洗う争いとなり、「三浦が者は友をも喰らふ」と嘲笑され、「宝治合戦」で執権北条時頼の専制強化のために一族の殆どが滅亡、三浦の家名を嗣いだ庶流の佐原氏もやがて押し寄せる戦国の波に翻弄されて、相模新井城で北条早雲に攻め滅ぼされます。そんな三浦一族の栄光と苦難の道の出発点がここ、衣笠城です。ちなみに我が故郷、新潟県黒川村の黒川城城主、黒川氏はこの三浦氏(三浦和田氏)の末裔にあたります。

地勢的には三浦半島の内陸部に位置する標高130mほどの丘陵です。周囲の谷津の湿地、河川を天然の外堀とした山城ですが、かつては久里浜周辺の海が深く入り込み、海とも繋がりを持った城であったとともに、馬蹄形の丘陵全体を取り込んだ、規模の大きい城郭でもあったそうです。しかし高度に発達した戦国期の山城を見慣れた目にはあまり目を引く遺構もなく、急斜面の天嶮の地形頼みの印象は免れません。この鎌倉期前後の山城は、城といってもとくに大きな普請を行うわけではなく、こうした天然の要害を利用しただけのものが多かったようで、「城」という概念も、施設や建物を指すだけではなく、こういった天嶮の山に籠る行為自体を「城」というふうに捉えていたようです。遺構から推測して、戦国期には北条氏流の洗練された支城ネットワークには組み込まれていなかったでしょう。ただ、可能性があるとすれば、鎌倉・玉縄方面から浦賀・三崎方面への烽火中継点、くらいの使われ方はしていたかもしれません。

この日は北条氏(後北条氏)の海城をメインに廻ったのですが、たまたま通り道に当たるこの古城に立ち寄ってみました。しかし場所はわかっても登山口がわからず、さんざん迷って衣笠山公園に車を停めて城攻めを開始。しかし、この「衣笠山公園」自体は全然衣笠城の山じゃなくて(外郭の一部かもしれないが)、一度山を下山してから改めて衣笠城に登ることになりました。比高差こそたいしたことが無いものの、衣笠山公園を登って一度降りてまた登る、その上尾根道はアップダウンがあり結構きつかったです。何よりも真夏の暑さ。鬱蒼とした森のせいで風通しもほとんどなく、周囲の住宅街もものすごい急坂で、「夏に山城なんて来るモンじゃないな」というのを改めて実感。せめてモノスゴイ遺構でもあればいいのですが、前述の通り遺構らしい遺構も殆ど無く、何となく「労多くして・・・」という気がしないでもありません。まあそれでも、武家政権前夜に散った古城の趣は十分に味わえました。しかし、どっちかというと衣笠山公園の方がお城っぽかったなあ。。。

三浦半島中央部の130mほどの丘陵地帯にある衣笠城。かつてこのあたりまで海が入り込んでいたとは、にわかには信じられない気がします。 南側の中腹にある大善寺附近が居館推定地。しかし、この附近の住宅地の道路の傾斜、スゴすぎ・・・。真夏に登るのは汗ダクになってしまう。

公園として整備されている衣笠城本丸。しかしこのクソ暑い日に訪れるのはソレガシくらいしかおらず、夏草に覆われていました。でもそのうら寂しい感じが妙に似合うんだよな。 城内最高地点の「物見岩」附近に建てられた城址碑。物見岩といっても、周囲は木々に覆われて眺望はあまりよくありませんでした。。。
うーん、お城の遺構を期待していくとちょっと厳しいかも知れないけれど、三浦氏の「原点」を訪れてみたのはヨカッタかな。もう一度行ってみたいなあ。夏以外に。。。

 

 

交通アクセス

横浜横須賀道路「衣笠」ICすぐ。

JR横須賀線「衣笠」駅より徒歩20分。

周辺地情報

北条水軍の主力港・浦賀城、三浦道寸が壮絶な自刃を遂げた新井城など。

関連サイト

 

 
参考文献 「日本城郭大系」(新人物往来社)、「完全制覇 鎌倉幕府」(鈴木亨/立風書房)、「源平の興亡」(学研歴史群像シリーズ)、現地解説板

参考サイト

城跡をゆく

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