鎌倉幕府創設前夜の治承四年、伊豆に挙兵した源頼朝に呼応して衣笠城に兵を挙げた三浦大介義明。しかし、畠山重忠をはじめとする軍勢に攻め寄せられ、老齢の義明は一族を衣笠城から落とし、ひとりこの城に残り壮烈な自刃を遂げます(あるいは城下で自刃とも)。享年八十九歳。逃れた嫡子の義澄は江戸湾で北条時政軍と合流、安房に逃れた頼朝に合流し、上総介広常、千葉介常胤らとともに鎌倉幕府創設に多大な寄与をしました。義明は頼朝に大きな期待をかけながらも、その天下を眼にすることなく、そして「武家による、武家のための政権」の世を見ることなく死んでゆきました。なんとなく、関ヶ原合戦前夜の伏見城での鳥居元忠を思い起こします。三浦氏は頼朝の政権下で重く用いられますが、やがて繰り返し悲劇が訪れます。幕府内部の権力争いが表面化した和田義盛の乱(和田合戦)では同族が血で血を洗う争いとなり、「三浦が者は友をも喰らふ」と嘲笑され、「宝治合戦」で執権北条時頼の専制強化のために一族の殆どが滅亡、三浦の家名を嗣いだ庶流の佐原氏もやがて押し寄せる戦国の波に翻弄されて、相模新井城で北条早雲に攻め滅ぼされます。そんな三浦一族の栄光と苦難の道の出発点がここ、衣笠城です。ちなみに我が故郷、新潟県黒川村の黒川城城主、黒川氏はこの三浦氏(三浦和田氏)の末裔にあたります。
地勢的には三浦半島の内陸部に位置する標高130mほどの丘陵です。周囲の谷津の湿地、河川を天然の外堀とした山城ですが、かつては久里浜周辺の海が深く入り込み、海とも繋がりを持った城であったとともに、馬蹄形の丘陵全体を取り込んだ、規模の大きい城郭でもあったそうです。しかし高度に発達した戦国期の山城を見慣れた目にはあまり目を引く遺構もなく、急斜面の天嶮の地形頼みの印象は免れません。この鎌倉期前後の山城は、城といってもとくに大きな普請を行うわけではなく、こうした天然の要害を利用しただけのものが多かったようで、「城」という概念も、施設や建物を指すだけではなく、こういった天嶮の山に籠る行為自体を「城」というふうに捉えていたようです。遺構から推測して、戦国期には北条氏流の洗練された支城ネットワークには組み込まれていなかったでしょう。ただ、可能性があるとすれば、鎌倉・玉縄方面から浦賀・三崎方面への烽火中継点、くらいの使われ方はしていたかもしれません。
この日は北条氏(後北条氏)の海城をメインに廻ったのですが、たまたま通り道に当たるこの古城に立ち寄ってみました。しかし場所はわかっても登山口がわからず、さんざん迷って衣笠山公園に車を停めて城攻めを開始。しかし、この「衣笠山公園」自体は全然衣笠城の山じゃなくて(外郭の一部かもしれないが)、一度山を下山してから改めて衣笠城に登ることになりました。比高差こそたいしたことが無いものの、衣笠山公園を登って一度降りてまた登る、その上尾根道はアップダウンがあり結構きつかったです。何よりも真夏の暑さ。鬱蒼とした森のせいで風通しもほとんどなく、周囲の住宅街もものすごい急坂で、「夏に山城なんて来るモンじゃないな」というのを改めて実感。せめてモノスゴイ遺構でもあればいいのですが、前述の通り遺構らしい遺構も殆ど無く、何となく「労多くして・・・」という気がしないでもありません。まあそれでも、武家政権前夜に散った古城の趣は十分に味わえました。しかし、どっちかというと衣笠山公園の方がお城っぽかったなあ。。。