逃げる道寸 追う早雲
住吉城
すみよしじょう Sumiyoshi-Jo
別名:
|
|
神奈川県逗子市小坪
|
城の種別 |
平山城
|
築城時期
|
不明(鎌倉期?)
|
築城者
|
不明 |
主要城主
|
北条氏、三浦氏
|
遺構
|
不明 |
住吉城遠景 <<2002年08月10日>> |
|
歴史 |
築城時期は不明。おそらく、要塞都市・鎌倉防衛のための施設のひとつであろうと推測されている。
永正七(1510)年、越後守護代・長尾為景と関東管領・上杉顕定の対立で、北条早雲は長尾為景に呼応して挙兵し、住吉城に立て籠もった。その後は三浦道寸(義同)の手に渡ったらしい。早雲は永正九(1512)年八月、古河公方家・山内上杉家の内紛の乗じて、扇谷上杉氏方で相模における最大勢力であった三浦義同の岡崎城を急襲しこれを奪取した。三浦義同・義意父子は岡崎城から逃れ住吉城に立て籠るがこれも陥とされ、義同らは新井城、三崎城に立て籠った。早雲は力攻めでは陥とすことができないと考え、翌永正十(1513)年十月に三浦半島の付け根に玉縄城を築き糧道を断つ作戦に出た。結局永正十三(1516)年七月に、早雲は三浦父子を新井城に攻め滅ぼし、相模一国を手中にした。住吉城のその後は定かではないが、まもなく廃城になったものと思われる。
|
北条早雲に居城の岡崎城を急襲された三浦道寸(義同)が立て籠った「住吉ようがい」です。しかし程なくこの住吉要害(住吉城)も陥とされ、道寸は三浦半島の先端に近い新井城に立て籠ることになります。
住吉城は「逗子マリーナ」背後の標高80mほどの丘陵にあり、海と急斜面、複雑に入り組む谷津に守られたそれなりの要害地形です。しかし、海に面しているにも関わらず、水軍の拠点であったという話は聞いたことがありません。道寸に先立って早雲が立て籠ったときは、「住吉の古要害を取り立てた」となっているので、すでに何らかの防御施設があったことが伺われます。本当は丘に登ってみたかったのですが「猛暑」「日没」「藪」「道がわからない」「崖が急」「私有地」などの悪条件が重なり、外観を眺めるだけに留まりました。そのため遺構があるのか、それがどの程度なのかはわかりません。しかし「日本城郭大系」などの書物によれば、周囲には「ばんばた」「げんじがやと」などの地名と、周辺の寺院を含むいくつかの削平地があるのみで、戦国期の城郭を思わせる遺構はありそうもないのが実情です。実際には戦国期の城郭として捉えるよりも、丘陵背後の「名越切り通し」と一体化した、武士の都・鎌倉を防御する施設の一部であろうと見られています。ご存知の通り鎌倉は三方を険しい山、残る一方を海に囲まれた天然要害地形で、いわば「鎌倉城」と呼べるような要害性を兼ね備えた都市です。しかしそれはあくまでも鎌倉時代の話で、戦国期にはもはや鎌倉の要害性は「時代遅れ」になりつつあったでしょう。従ってこの「住吉要害」も本格的な籠城戦を行えるような城郭ではなく、早雲に追われてここに立て籠った道寸も、一旦敗軍をまとめて軍勢を立て直そうとしたのではないでしょうか。だから恐らく居住や籠城のための施設はほとんど無いでしょうし、当然その後の水軍の拠点にもなり得ないわけですね。
|