土塁の高さ、空堀の深さが印象的

木原

きはらじょう Kihara-Jo

別名:

茨城県稲敷郡美浦村木原

(木原小学校裏、木原城址公園)

城の種別 平山城

築城時期

応永元(1394)年または永録五(1562)年

築城者

近藤氏

主要城主

近藤氏、土岐氏

遺構

曲輪、土塁、空堀

詰曲輪虎口の空堀と土橋<<2001年3月25日>>

歴史

築城時期には応永年間説と永禄年間説があるが、現在見られる遺構は戦国末期のもの。

もともとは関東管領・山内上杉憲定に従って美濃から下向した土岐原左馬助秀成の江戸崎城の支城であると考えられる。永厳寺寺伝によれば、応永元(1394)年、近藤民部正利貞(利真)開基とあり、初代木原城主と考えられる。永禄五(1562)年、江戸崎城の土岐治英は木原城を修築し近藤義勝(利勝)に守らせた。これは治英と小田城の小田氏治との同盟により、佐竹氏と対立する立場になったためで、現在にいたる木原城はこのときに完成したものと見られている。

東戦記によれば天正二(1574)年、小田氏に属していた江戸崎監物が佐竹氏に寝返り落城、天正十一年(1583)年には再度佐竹氏・芦名氏に攻められ落城。最後は天正十八(1590)年の小田原の役で、北条氏に荷担したために豊臣方についた佐竹義宣に降伏開城し、江戸崎城に入った佐竹一族の芦名盛重の領土となった。

築城時期には二つの説がありますが、永禄年間では遅すぎる気がします。また現地の解説板にも永正元(1504)年の寺伝にすでに近藤氏の名が見えることから、関東管領・上杉憲定が信太庄に土岐原氏を下向させたのと相前後して原型となる城は築かれたのではないでしょうか。もともと江戸崎城の支城だったものが北条氏系の息がかかることによって大城郭化したもの、逆井城あたりと同じような生い立ちを持つ城じゃないかと想像します。

木原城自体は華々しい歴史を彩ったお城ではなく、全国的には決して有名じゃないと思いますが、城址公園はよく整備されている上、大規模な遺構が素晴らしい状態で残っています。また、城域全体の意外なほどの広さや、霞ヶ浦に面した高台という立地条件など、見るべきところは多いですね。土塁のバカでかさ、堀の深さなど、見ごたえ充分。バブルの頃だったら面妖な模擬天守でも建てられたかもしれないけど、今では遺構を大切にしつつも整備された公園になっていて、こういう史跡利用のあり方には共感を覚えますね。

ここは古代の環濠集落などもあったらしく、古くから居住に適した場所であったようで、周囲には城砦集落などの名残もあるそうです。

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交通アクセス

常磐自動車道「桜土浦」ICより国道125号、20分。

周辺地情報

江戸崎城が近隣。稲敷郡には佐竹氏の南進に備えたと思われる長塁(土塁)が多数残っているらしいです。木原城周囲にも土塁・空堀が断片的に見られます。

関連サイト

ひづめさんが運営する「美浦村お散歩団」をぜひ見てください。

 

参考文献 「御茶園遺跡」(美浦村教育委員会)、現地解説板

参考サイト

美浦村お散歩団常陸国の城と歴史

 

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