もともとは今川氏の属将であった由比美作守正信が在城していた徳之一色城が前身であった。永禄三(1560)年以降、長谷川紀伊守正長が在城していたが、永禄十三(1570・元亀元年に改元)年正月、花沢城を攻める武田軍に包囲され長谷川正長以下一族21名、総勢300名は開城降伏した。
武田信玄は馬場美濃守信春に命じて徳之一色城を改修させ、田中城と改称し駿河支配の支城となった。永禄十三(1570)年九月に改修は一応完成し、信玄は城将に山県三郎兵衛昌景を任じた。元亀三(1572)年には西上作戦を前に城将を板垣信安に交代させた。
信玄の死後、武田勝頼は天正二(1574)年二月に高天神城に侵攻し翌月に攻略、遠江に侵出を図るが、天正三(1575)年、長篠・設楽ヶ原合戦で大敗し甲斐に退去すると、この機に徳川家康は掛川城の城兵をもって武田氏の諏訪原城を攻略、田中城をはじめ西駿河の武田氏の支城網を分断した。
天正六(1578)年、家康は田中城、小山城、持舟城を攻撃、三月には横須賀城を築城して本陣とし、高天神城を包囲した。天正九(1581)年三月、高天神城は落城、翌天正十(1582)年二月、織田信長・徳川家康は甲斐・駿河に侵攻、田中城には依田信蕃、三枝土佐虎吉が守備して徳川勢と激しく抗戦したが、武田一族の穴山信君の寝返りによって孤立した依田信蕃は三月一日、降伏開城した。
慶長五(1600)年の関ヶ原の役の後、翌六(1601)年に徳川譜代の酒井忠利が入城し外郭の惣構えが拡張された。以後、松平忠重、水野忠善、松平忠晴、北条氏重らが目まぐるしく城主交代し、享保十五(1730)年に上野沼田城から本多正矩が四万石で入封した後は本多氏歴代が在城、明治元(1868)年に廃城となった。なお、駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康は鷹狩りのために度々田中城を訪れていたが、元和二(1616)年一月、御用商人茶屋四郎次郎から、上方で流行している鯛の天ぷらの話を聞き、その場で揚げさせて食べたことが原因で腹痛を起こし、体調を崩したまま同年四月に七十五歳で没した。