廃城113年後の見学会

小場城

おばじょう Oba-Jo

別名:

茨城県常陸大宮市小場

城の種別

平山城

築城時期

康安二(1362)年

築城者

小場義躬

主要城主

小場氏、大山氏

遺構

曲輪、空堀、土塁、土橋ほか

主郭脇の空堀<<2005年01月29日>>

歴史

佐竹氏十代・義篤が康安二(1362)年正月七日の譲状で次男・大炊助義躬に小場の地を分知し、義躬は小場氏を称して小場城を築城したという。以後代々小場氏の居城となった。 小場義忠・前小屋義広の兄弟は延徳二(1490)年に佐竹義舜が山入氏に太田城を追われて孫根城に匿われた際に義舜に加勢し、兄弟揃って討ち死にしている。また、天文九(1540)年三月十四日、小場義実は「部垂の乱」に際して部垂城内で落城の巻き添えとなって討ち死にしている。

天正四(1576)年ごろには佐竹義重の実弟である小場義宗が大山城主・大山義則氏との領地紛争から頓化原で戦い、佐竹義重の仲介で和睦したという(頓化原合戦)が、年月や事実関係は不明な点が多い。

慶長五(1600)年、佐竹氏の家臣団の知行再編に伴い小場義成は小田城に移り、小場城は大山義喜の子、則宗の持ち城となったが慶長七(1602)年の佐竹氏の秋田移封に伴い廃城となった。なお江戸時代の正徳五(1715)年、秋田藩士の前小屋民部忠利、平山半左衛門春芳らが小場城跡等に調査に訪れた様子が「常陸御用日記」として残る。

小場城は佐竹氏の一族である小場氏代々の居城です。小場氏そのものは以前から存在し、佐竹氏の一族が養子に入ったとも考えられます。場所的には眼下に那珂川が流れ、お城の台地の下には「舟渡」地名もあるなど、おそらく那珂川水運と渡河点の監視にあたるお城であったのではないかと思います。この那珂川中流域は南北朝時代に瓜連城の合戦があった場所に近く、佐竹氏領の中でももっとも支配の届きにくい地であったようで、この時期小場氏をはじめ、石塚氏(石塚城)、大山氏(大山城)などの佐竹一門の分家が次々と配置され、さらに各庶家が分家を輩出して、結果的にこの周辺は佐竹氏系城館の密集地帯になっています。これらの佐竹一族は佐竹宗家や相互との婚姻を繰り返しながら戦国期を生き残っていくのですが、時にはこうした分家どうしが争うこともあったようです。

小場義忠・前小屋義広(義澄)の兄弟は延徳二(1490)年に佐竹義舜が山入義藤に太田城を追われ、外祖父の大山常金を頼って孫根城に匿われた際に義舜を守って孫根城に入り、山入義藤らの軍勢と戦った末に兄弟そろって討ち死にしています。その後義舜は太田城を奪回し、「佐竹氏中興の祖」となりますので、小場氏はその命を代償に佐竹氏の族的発展に貢献したことになります。しかしその後、今度は佐竹氏十六代の義篤と実弟の宇留野(部垂)義元の間で家督争いが勃発すると、小場氏もそれに巻き込まれしまいます。享禄二(1529)年、宇留野氏を嗣いでいた義元は部垂城を攻撃してこれを乗っ取り宗家に敵対します。義元側には義篤の庶兄である永義、高久城主の高久義貞などが加担し、まるで山入一揆の乱の再現のような家中分裂劇を繰り広げたのですが、十二年後の天文九(1540)年三月、下野烏山城攻撃を中止した義篤が突如部垂城に襲い掛かり、部垂義元は自刃、このときにたまたま部垂城を訪れていた小場義実が落城の巻き添えとなって討ち死にした、とされています。しかし実際にはこの部垂の乱においては那珂川・久慈川中流域の佐竹一族の多くが義元側に加担しており、小場義実の義兄弟にあたる高久義貞(高久城主)の挙兵や小場氏の庶家にあたる前小屋氏も義元に与して宗家の攻撃を受け、前小屋城が落城している事実などから見ても、小場義実はこの乱に積極的に加担していた可能性も捨て切れません。その遺骸も「宗家に弓を引いた」という外聞の悪さから、江戸時代中期まで小場の地に改葬されなかった、などという話もあります。しかしこの乱の後は小場氏は存続を赦されたばかりか、部垂衆の遺臣団が小場氏の寄騎として再編されるなど、少々納得のできない事もあります。このように「部垂の乱」という事件に関する小場氏の位置づけはもう少し考察の余地がありそうな、「裏」が潜んでいそうな雰囲気があります。

そして最も不可解な事件は天正年間に起きたという頓化原(とっけばら)合戦です。この件に関しては大山城石塚城の頁をご覧くだされ。

小場城縄張図

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さて時は流れて江戸中期の正徳五(1715)年、かつての小場城の跡地に珍しいお客さんが現れます。これは秋田の地で大館城代を務めていた小場義村が「拙者どもの名字の由来の地」を調査して小場氏の事蹟を報告せよ、という命を受けた秋田藩士の前小屋民部忠利と平山半左衛門春芳の二名とその下士たちで、はるばる秋田からテクテク歩いてこの地を訪れています。この時期秋田藩では本格的な藩史編纂作業を進めており、宝永六(1709)年には根元正右衛門が家老の小野崎氏の指示のもとで石神城跡などを訪れているのと同じような経緯によるものでしょう。途中、奥州棚倉や大子あたりでも古城などを巡検しつつ、小場の庄屋・佐次右エ門と訪ねて小場氏の事蹟に耳を傾け、そして佐次右エ門の案内で遂に小場城の跡に立つのです。「三重堀、東は埋沢と申す沢あり・・・」埋沢(梅沢)という小字名は城址の南側の谷津にありますが、三重の堀は少なくとも現在は確認できません。「西南は那珂川にて、本丸に並び西城中城と申すところあり、中城に稲荷社御座候・・・」たしかに南西には那珂川が流れ、主郭(T・本城)の西側に西城(V)、東側には中城(W)の地名があります。が、中城の稲荷社というのはどこのことかわかりません。そして当時の遺構はというと「堀は深堀たしかに堀形残り申候」「大方土橋に罷成り往還致し候・・・」などと、深い堀がその痕跡を残し、土橋なども残っていたようです。ただこの書き方では「堀形」「土橋に罷成り」とあるように、遺構がすでに完全な状態ではなく堀は埋められつつあり、「土橋」というのも遺構のことではなく堀を埋めて通行できるようにしてしまった、というようなニュアンスも感じられます。そして本丸はといえば「皆畑に罷成候、畑高十二、三石御座候由・・・」とまあ、十二、三石相当の畑にすっかり姿を変えていたらしいことが伺われます。この「常陸御用日記」は現地での見聞を淡々と書き綴っているだけなので、見学した二人の藩士が何をどう思ったかは読み取れません。しかしこの江戸中期のお侍さん方は「城」といえば佐竹氏の久保田城なり大館城なり、それなりに立派な近世城郭を見て育ったのでしょうが、その遠祖の城をはるばる訪れてみたら、廃城後113年ですっかり畑になっている姿をみて、何か感じ入るところがあったでしょうか。もしかしたら石神城を先に見学した根本正右衛門あたりから「あんまり期待せん方が良いぞ」などとアドバイスを受けていたかも・・・。

小場城は「常陸御用日記」の記述からもわかるとおり那珂川に面した台地上にあり、比高は30mほどあります。こうした台地上の城郭の縄張としては、崖に面した台地先端に主郭を設け、台地基部に向かって数本の空堀を入れて曲輪を直線的に連ねる直線連郭形式のものが多いのですが、小場城では台地の中央付近に四方を空堀と土塁で囲んだほぼ方形の主郭(T)を置き、その周囲に曲輪を配するという、平城のような縄張を持っています。これはおそらく台地先端が緩やかに下がっているために主郭としては不適切だったという地形的制約によるものでしょう。
現在の小場城はこの主郭周囲の空堀と土塁が残っていますが、それ以外の遺構は宅地や畑になっておりあまり明瞭ではありません。主郭も民家と畑になっており、曲輪の内部を踏査するには一言許可を求めた方がいいでしょう。主郭北側の道路沿いに大きな空堀があり、解説板などもあります。外郭部は明瞭ではなく、地名や現在の地形からいくつかの曲輪に分かれていたことを想像するしかありません。しかし前小屋民部たちが見たという三重堀はぜひ見たかったなあ・・・。

[2006.10.28]

那珂川に面した比高30ほどの台地にある小場城。附近は室町期に分家した佐竹氏の城館が密集しています。小場城はこの那珂川の交通監視のための重要拠点だったでしょう。 まず目に付くのが主郭北側の大きな空堀1。道路沿いには解説板などもあります。
「御用日記」にある「土橋」というのはここだったかもなあ。T郭の中は民家の敷地になっていますので見学の際は必ず一声かけましょう。 主郭東側の堀。道路になっていますが痕跡は明瞭です。
主郭の北側から西側にかけては土塁もよく残っています。 主郭南、「御城(U)」との間の大きな空堀。途中埋められたりしていて分かりにくいですが、鉤型に大きく屈曲しています。
U郭(御城)はすっかり畑に。中世城郭で言う「御城」というのは本丸のことを指す場合が多いのですが、このお城では「本城」が主郭、「御城」はその下位の曲輪ということになります。 台地先端の「西城」(V郭)は民家が立て込んでいて全体像が掴みにくい。通常は台地先端に主郭を置くのが定石ですが、台地先端が下がっているため「本城」の下位の曲輪と考えられます。
こちらはW曲輪「中城」、こちらも畑で明瞭な遺構はほとんどありません。「御用日記」で言うところの稲荷社というのも分からなかったなあ・・・。 こちらはX曲輪「「城内」と「根古屋」の間の堀3。ここが「御用日記」の「三重堀」だったところかもしれません。
堀3に面した土塁。櫓台状になっていて上には小さな祠が祀られていました。 北側の谷津は自然地形ではありますが、一部に「水堀だったかも」と思わせるような痕跡もあります。

 

 

交通アクセス

常磐自動車道「那珂」IC車15分。

JR水郡線「静」駅徒歩60分。

周辺地情報

石塚城が見ごたえあります。戸村城、瓜連城や大山城なども興味があれば。

関連サイト

 

 
参考文献

「大宮町史」

「桂村史」

「常北町史」

「源姓小場氏の系譜」(小場源一郎)

「茨城の古城」(関谷亀寿/筑波書林)

「日本城郭大系」(新人物往来社)

「図説 茨城の城郭」(茨城城郭研究会/国書刊行会)

参考サイト

余湖くんのホームページ

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